義和団事件最終議定書調印
1901/09/07
義和団事件の解決と引き換えに、清国政府は11ヵ国にキツい条件を飲まされた。
    
1898/05/23   義和団、排外運動開始
1900/01/27   列国公使団、清国に義和団鎮圧を要求
1900/06/15   清国への陸軍派遣を閣議決定 (各国公使に通告)
1900/06/20   義和団、北京各国公使館を包囲 (〜08/14)
1900/06/21   清国、日本など8ヵ国に宣戦布告 (義和団事件)
1900/07/06   陸軍1個師団の清国派兵を閣議決定
1900/08/14   連合軍、北京総攻撃開始
1900/10/08   義和団事件に関する北京列国公使会議@開催
1901/04/19   北京列国公使団、清国に義和団事件賠償金4億5000万両を要求
1901/05/29   清国、北京列国公使団の賠償金要求を受諾
1901/07/31   連合軍、北京からの撤退開始
1901/09/07   義和団事件最終議定書調印
1902/04/08   満州還付条約調印 (露・清)
1903/04/08   ロシア、満州撤兵A不履行
1903/08/12   ロシア、旅順に極東総督府を設置
1903/10/06   日露交渉(小村・ローゼン交渉)開始
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
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taro's トーク ああああああ
引用一九〇〇年、愛国的ではあるが自然発生的であり、綱領のない義和団 ―華北農民の反帝国主義的武装蜂起が起こったが、八ヵ国連合軍により鎮圧され、 流血の惨事に終わった。 以前よりずっと抑圧的な、新しい不平等条約〔辛丑条約〕が中国に強いられた。 華北の港湾都市天津では、一つの都市に八ヵ国の支配する「飛び地(包領)」のような外国支配地、 つまり「租界」を抱えることになった。 これらはイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本、イタリア、ベルギー およびオーストリア=ハンガリー〔当時、両国は一帝国〕の租界であって、 これらの国のほとんどとアメリカ合衆国の軍隊が駐留することになった。
事実、首都北京においては、列強の公使からなる外交団が、あらゆる問題において、 清朝政府に命令を下した―この都市の中心部に軍隊に護衛され、 防備を固めた「公使館区域」を設けた。 中国人は外国の通行証なしでは立ち入ることができなかった。 その周辺の広い区域からあらゆる建物がとり壊された。 この堅固に防備された侵略者に、勇気をふるってはむかおうとするものに対して、 外国の銃砲が射撃しやすくしたのである。 直接的な征服の場合は別として、これ以上の民族的屈辱はなかったといえる。
引用一九〇一年九月、清朝と列国間で締結された「北京議定書」(辛丑和約)は、 中国の半植民地としての地位を決定的にした。 条約の内容そのものが、列強間の対立する利害調整の結果として決定されたもので、 清朝はこの間相手にされなかった。 これにより、中国は四億五千万両、三十九ヵ年賦の元利九億八千万両の莫大な賠償金を課せられ、 関税・塩税・厘金がその財源として指定され、外国人総税務司の管轄下におかれた。 また北京に中国人の居住を認めぬ公使館区域を設定して外国軍隊が駐屯し、 北京−天津(大沽港)間の砲台撤去を強制される一方、北京から山海関までの沿線要地における外国の駐兵権を認めさせられた。 北京は丸裸となり、のちに日本は北京周辺の駐兵権を華北侵略のテコとして使った。 さらに今後一切の排外運動の死刑による取締りを約束させられた。 こうして清朝は、列強の権益擁護を使命とする「洋人の朝廷」に変質し、 そのかぎりでのみ存続を保証されることとなった。 反面、列強は中国の直接的「分割」、つまり植民地化をなしえなかった。 これは列強間の対立と相互牽制という要因にもよるが、 とりわけ、義和団に示された中国民衆の抵抗力の強さによる。
引用西太后は北京脱出後、連合国との講和交渉を李鴻章に託した。 両広総督だった李鴻章は、張之洞・劉坤一ら華中・華南の洋務派系総督・巡撫とともに、 公然と清朝の出兵命令を拒否し、列強と互保協定を結んで中立を宣言していた。 清朝はかれらの抗命を処断するどころか、その張本人に講和の全権を委ねるという醜態を演じた。 義和団の闘争は大清帝国を事実上の解体にまで追いこんだのである。
「中華の物力を量り、与国の歓心を結べ」 ―自分の地位の保全を条件に、金で済むことなら糸目をつけるなと 西太后に命ぜられた李鴻章らは、一九〇一年、辛丑の九月、連合国と議定書をとりかわした。 辛丑条約ともいう。
そこには六七五〇万ポンド=四億五〇〇〇万両、三九ヵ年賦で元利合計九億八〇〇〇万両という法外な賠償金の支払い、 列強の軍隊の北京・天津・山海関などへの駐屯、大沽砲台など北京への自由往来を阻む防衛施設の撤去、 北京の各国公使館所在地域の治外法権化等々、過酷かつ屈辱的な条件が規定され、 中国は実質上、列強の共同管理のもとにおかれた。 清朝皇帝の上に各国公使団なる太上皇帝が君臨することとなり、 アヘン戦争いらい六〇年を過渡期として、中国の半植民地体制がここに完成した。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「義和団事件最終議定書」は「辛丑条約」と同じ意味です。