桂首相、伊藤・山県両元老に辞意表明 1903/06/24
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
「公(伊藤)は元老として指導を賜わることが多く感謝致しているが、
議会の多数党の首領でもある。
元老の説を採るか採らざるかは総理の責任であるが、多数党首領の説はきかざるを得ない。
内閣は一個の中心をめぐって動くべきなのに、事実上中心は二個あり、これでは総理はあってなきが如くであるから、
元老か党首か二者択一として頂きたい」
しかし、伊藤は考慮の余地なしとしてこの提案を蹴った。
怒った桂は七月一日腹痛を理由にして天皇に辞表を奉呈した。
山県は困難な時局を収拾するには政界団結の外はない。
しかるに伊藤は元老をもって党首を兼ねこの団結を妨げることが多い。
この際党首を免じて枢府議長として側近に仕えしめるのが最良の道である。
しかし、我らには伊藤を動かす力がないので陛下のお力にすがる以外に道はない。
もし、陛下の仰せに対し、伊藤が承知しないときは、臣山県最後の御奉公として“足利尊氏”を討つのみ、と切々と天皇に訴えた。
毎度のことなので天皇も額面通りには受けとらなかったが、
政局の混乱を救う為と、日露関係逼迫の為との二つの理由から伊藤を側近に侍らせようと考え、
七月六日伊藤を呼んで枢府に入ることを命じた。
伊藤は意外の勅命に驚いたが、天皇と話し合っている内に、
自分の忠誠は認めて頂いているという確信を得たので、
かなりやりすぎたとの反省のもとに、七月十二日あらためて参内し、
一、自分は枢府議長となるが、この際山県、松方も枢府顧問官として第一線から隠退せしめられたい、
二、臣が政友会を脱するに際しては枢府議長西園寺公望を政友会総裁とすることをお認め頂きたい、という二条件を申し入れ、
勅許となったので翌十三日宮中において枢府議長の親任式にのぞみ三十年にわたる実力者の座からおり、
桂たちを安心させた。(同日付で山県松方も枢府顧問官となった)
豊田穣 「西園寺公望(上)」
P.322この本を入手
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