明石大佐、公使館員とともにペテルブルク退去 (明石工作開始)
1904/02/10
帝政ロシアを内側から苦しめるたった一人の革命支援工作、明石大佐始動。
    
1904/02/06   栗野駐露公使、ロシアに国交断絶を通告
1904/02/08   連合艦隊の駆逐艦隊、旅順口のロシア艦隊を夜襲攻撃
1904/02/09   仁川沖海戦
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/02/10   明石大佐、公使館員とともにペテルブルク退去 (明石工作開始)
1904/07/28   ロシアのプレーヴェ内相暗殺
1905/01/22   血の日曜日事件
1905/03/01   奉天会戦 (〜03/10)
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/06/27   戦艦「ポチョムキン」の反乱
1905/08/10   日露講和会議開催 (アメリカ・ポーツマス/首席全権:小村寿太郎
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/09/05   日比谷焼き打ち事件 (〜09/06)
1905/10/28   ロシア領ポーランドでゼネスト、戒厳令施行
1905/10/30   ロシア皇帝ニコライ2世、議会召集を宣言
1905/10/31   ロシア皇帝ニコライ2世、ウィッテを首相に任命
1905/12/28   明石大佐帰国
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用ロシアの衛星圏には不平党、独立党が精力的な地下工作をつづけており、 ロシア本土にも、帝政の矛盾と圧政のなかから革命運動家が年々続出している。
日本の大本営は、この戦争をはじめるにあたって、 これらロシア内外の不平分子を煽動して帝政を倒さしめるべく大諜報をおこなうことを決定し、 その任務を公使館付武官を歴任(フランスおよびロシア駐在)してヨーロッパにあかるい明石元二郎大佐にあたえた。
明石は福岡藩出身で、士官学校は好古よりやや下の六期であった。 服装に無頓着ないわば東洋的豪傑風の男だったが、かれのやったしごととその効果は驚嘆すべきものであった。 しかも資金はふんだんにつかった。 参謀本部がかれ個人にあたえたこの工作費が、日本の歳入がわずか二億五千万円のころに百万円という巨額であったことをおもえば、 その活動量をほぼ想像できるであろう。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。