旅順総攻撃@開始
1904/08/19
日清戦争の時にはちょろい要塞だった。 甘く見た陸軍は戦死者の山を築いた。
    
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/02/24   旅順口閉塞作戦@
1904/03/27   旅順口閉塞作戦A
1904/05/03   旅順口閉塞作戦B
1904/05/31   大本営、旅順攻略のため、第三軍の編成を決定
1904/07/12   軍令部長ら、参謀総長に旅順攻略促進を要請
1904/08/19   旅順総攻撃@開始 (第三軍司令官:乃木希典/〜08/24)
1904/08/24   ロシア、バルチック艦隊の太平洋派遣を決定
1904/10/15   バルチック艦隊、リバウ軍港を出航 (司令長官:ロジェストウェンスキー
1904/10/26   旅順総攻撃A開始 (〜10/31)
1904/11/26   旅順総攻撃B開始
1904/12/05   第三軍、二〇三高地占領
1905/01/02   旅順陥落
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用こうして
第三軍が、旅順口攻略のために第一日目に企図した第一、第九師団の作戦は、いずれも失敗に終った。
その苦戦あるいは難戦の態様は、そのごの戦闘の典型を告示していたといえるが、第三軍に印象づけた気配はうかがえない。
この日の戦いの参加部隊は、第三軍の一部にすぎず、 大部の将兵の「二十二日旅順口入城」の自信にゆるぎはなかったからである。
いや、第九師団第十九連隊第三大隊副官松井中尉は、龍眼北方堡塁攻略の失敗のニュースでかえって戦意は高揚した、と、 手記している。
「悲惨なる情報が到達する毎に、意気益々軒昂、きつと仇を討つてやると云ふ信念が一杯になつた。 自分乍ら実に荘厳な勇ましい心持になつた・・・・・・此時ほど我将士の士気の興奮したことはない」
児島襄 「日露戦争」  第3巻 P.211この本を入手
引用日本軍司令部が作成した旅順港要塞攻撃計画案は、次のようなものであった。 ―八月六日(十九日)、陸上戦線全体にたいし砲撃を開始し、 ついで砲撃に掩護されて、西部戦線前衛陣地にたいし示威的攻撃を敢行し、 若干遅れて前衛陣地に補助的攻撃を開始し、 最後に、八月八日(二十一日)の未明に東部戦線にたいし主要な打撃を加えるというのであった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。