日本海海戦
1905/05/27
運命を賭けた“この一戦” 連合艦隊はバルチック艦隊をこてんぱんにやっつけた。
    
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/08/10   黄海海戦
1904/08/14   蔚山沖海戦
1904/10/15   バルチック艦隊、リバウ軍港を出航 (司令長官:ロジェストウェンスキー
1905/01/02   旅順陥落
1905/03/10   日本軍、奉天占領
1905/04/08   バルチック艦隊、シンガポール沖を通過
1905/04/21   対露講和条件を閣議決定
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/05/29   海軍省、日本海海戦を詳報
1905/06/09   T・ルーズベルト(米)大統領、日露両国に公式に講和を勧告
1905/08/10   日露講和会議開催 (アメリカ・ポーツマス/首席全権:小村寿太郎
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/09/05   日比谷焼き打ち事件 (〜09/06)
〜 この大勝利で日本が得たもの 〜
日本海の制海権、講和のチャンス、自信、栄誉、捕虜
taro's トーク 艦隊主力の決戦で日本海軍がとった「丁字戦法」は参謀秋山真之の発案による。 唐津のお殿様のご子息が秋山の海軍の先輩で、彼は、この人物から村上水軍の海賊戦法を書いた古い兵書を借りて読み、 その戦法の一つをロシアとの決戦に採用、この圧倒的な勝利をつかんだ。 言うならば、最新の装備でぶつかりあう近代戦を、いにしえの海賊戦法で勝利したというわけだ。 バルチック艦隊相手の大勝利を、すべてこの「丁字戦法」に帰着させることはもちろんできないが、 それにしてもこれは、歴史を学ぶtaroにとって、うれしいかぎりの逸話だ。 過去から学んだことは未来に生かせるということを、秋山の「丁字戦法」は如実に証明してくれている。 秋山は「連合艦隊解散の辞」を「勝って兜の緒を締めよ」で締めくくっている。 ところが、東郷乃木を神社に祀りあげた日本人は、兜の緒ゆるゆるのまま戦いを求め、国を滅ぼした。 秋山のため息が聞こえてきそうだ。耳傾けるべし、古人の声!
引用成川は、戦死を決意したらしい。
哨戒に熱中するあまり、ひどく滑稽なことに、気がついたときは敵の大艦隊の真っ只中に入りこんでしまっていたというようなことは、 世界の海戦史上例のないことであった。 すでに形態としては包囲環の中にいる以上、脱出は不可能とみるしかない。
成川は船橋にいる士官たちに言った。 かれ自身気づかないことだったが、口調が漢文調になっていた。
「不覚なるかな、すでにわれらは死地に入った。 全力をもって脱出を試みるもあるいは能わざることあるべし。 そのときこそ、この船非力ながらも敵の一艦を求め、激しく衝撃してともに沈むべし」
ただ、この発見を鎮海湾の東郷閣下に知らせなければならない、と成川はいった。 送信を開始すれば当然、敵は電波で妨害する一方、砲をもって信濃丸そのものを無線機もろとも沈めるにちがいない。
「船が浮かんでいるかぎり送信をつづけるのだ」
というと、転舵一杯を命じた。 船が傾ぎ、波が右舷に盛りあがって、たちまち甲板を洗い、やがて左舷のほうへ滝のように流れ落ちた。 船は離脱すべく全速力を出した。と同時に、
「敵艦見ゆ」
との電波が、四方に飛んだ。 この付近のことを、海軍ではあらかじめ二〇三地点としておいた。この電信は正確にいえば、
「敵の艦隊、二〇三地点に見ゆ。時に午前四時四十五分」
であった。二〇三という数字は、旅順要塞の攻撃の最大の難所であり、 同時にそれを解決せしめるにいたった高地の標高と符合していた。 成川の船はこの数字を打電しつづけた。 御幣かつぎではなかったが、この数字からみてきょう幕をあげるであろう日露両海軍の決戦は容易ならざるものになるのではないかとおもった。
かれの船には、海軍技師木村駿吉がリーダーになって完成し、世界でもっとも性能のいい船舶用無線機とされる三六式無線電信機が積まれており、 その通信距離は八十海里であった。 木村ははや打ちをいましめ、遅くとも確実に打つことを海軍にすすめていた。
引用信濃丸にもっとも近い場所で哨戒にあたっていたのは、三等巡洋艦和泉(ニ九五〇トン)である。
この時期、二、三等巡洋艦のうち艦齢のあたらしい何隻かは国産でつくられていた。 新高、対馬、音羽、秋津洲、明石、須磨などがそうであったが、すでに艦齢二十一年というほどに老いてしまっている和泉は、英国製であった。
和泉の艦長石田一郎大佐は信濃丸からの第一報を受信したとき、自分の艦が信濃丸のもっとも近くにいることを考え、
「わが艦が、全艦隊の犠牲たらざるべからず」
と決断し、速力を増してバルチック艦隊と交叉するであろう地点をもとめて航進を開始した。
石田にすれば信濃丸は汽船にすぎない。 しかし和泉は保護甲板の厚さが〇・五インチから一インチというブリキのような小型巡洋艦とはいえ、軍艦は軍艦であった。 速力も新型の国産艦ほどはないとはいえ、敵の巡洋艦に対抗できる砲力をもっている。 和泉は信濃丸とその危険な任務を交代すべきであった。 むろん敵艦隊に接触すれば撃沈させられる公算が大きかったが、しかし石田は、
「わが連合艦隊にとって、和泉一艦をうしなっても戦力にさほどのマイナスにはならない。 それより和泉が敵艦隊に接触することによってその状況を逐一司令部に送ることのほうがはるかにプラスになる」
と考えた。
和泉は二本マストに二本煙突で、じつに簡潔な艦型をもっている。波が高く、艦がゆれた。 艦首にくだける波は、前甲板をいそがしく洗ってはふたたび海に去ってゆく。 当時少尉候補生で和泉にのっていた嶋田繁太郎(のち大将)は「ローリングのひどい艦だった」という述懐をのこしている。
索敵はながい時間を要した。 午前四時四十五分に信濃丸からの無電を感じ取ってからほぼ二時間、早朝の海をかけまわった。 海上には濛気が、走りゆくにしたがってときに濃くなったり、ときに淡くなったりしたが、しかし空は申しぶんなく晴れていた。
和泉が、沖合に無数の黒煙をあげて航進するバルチック艦隊を見たのは、午前六時四十五分である。
北緯三十三度三十分、東経百二十八度五十分、五島の北西約三十海里の地点においてである。 おりから濛気が濃くなり、展望はわずか五、六海里であった。 この濛気のために和泉はより接近するしかなかった。 しかし接近すれば敵に射たれるであろう。
が、和泉は猛然と接触した。 距離がちぢまってついに八、九千メートルにすぎなくなった。
石田は望遠鏡をもって、陣形を見、艦数をかぞえた。
望遠鏡にうつる敵の大艦たちは、すでに和泉に気づいていただけでなく、 その巨砲群をねじむけてこの小さな猟犬にむかって照準をつけつつあった。
しかし、石田は観察と報告に没頭した。艦を、敵艦隊に並進させた。
その間、バルチック艦隊の勢力、陣形、針路などをじつに綿密に報告した。東郷はのちに、
「自分は、敵艦隊のすべてを、敵に遭う前に、手にとるように知りつくしていた。それは和泉の功績である」
といったが、和泉は東郷のために忠実な目になろうとしていた。 ただ一艦をもって、世界有数の連合艦隊に立ちむかっているのである。 この和泉の行動を、この当時、大本営参謀だった小笠原長生が、 小牧長久手の戦いにおける徳川方の本多平八郎忠勝の果敢な接触(秀吉軍への)に比較しているが、 たしかに状況と行動は酷似していた。
引用五月二十七日午前二時四十五分、五島列島白瀬の北西方にあって哨戒任務にあたっていた「信濃丸」(六、三八七トン)が、 左舷方向に東へむかって動く燈火を発見し、接近した。 やがて、夜明けの気配がわずかにきざした頃、ロシア艦隊の黒煙を確認、午前四時四十五分、
「敵ノ艦隊、二〇三地点ニ見ユ」
と、打電した。
それによって日露両艦隊は接触し、その日と翌日にかけて対馬海峡を中心とした海域で激闘をくりひろげた。 その結果は、予想に反して日本艦隊の勝利に終った。 日本艦隊の勝因は、巧妙で周到な作戦行動、乗組員の練度の高さによるもので、海戦史上類のない圧勝であった。
ロシア艦隊は全滅状態で、戦艦八隻中撃沈六隻、捕獲二隻、装甲巡洋艦三隻すべて撃沈等、三十八隻の艦隊は撃沈十九隻、捕獲五隻、 逃走中沈没または自爆二隻、抑留八隻計三十四隻という大打撃を受けた。 これに対して、日本艦隊の損害は九〇トン以下の水雷艇三隻が沈没したにとどまった。 人的被害も海戦の激しさをしめすもので、ロシア艦隊の戦死者四、五四五名、捕虜司令長官以下六、一〇六名、 日本側は戦死一〇七名であった。
その海戦は日本海海戦と呼称され、ロシア艦隊の来航におびえていた政府関係者、軍人、一般人の喜びは大きかった。 人々は、日露両陸軍の決戦ともいうべき奉天大会戦につづいて、日本海軍がロシア艦隊を潰滅させたことに熱狂した。 号外の鈴の音が町々を走り、家々には国旗がひるがえった。 夜になると提灯行列が組まれ、人々は提灯をふり上げて万歳を叫び合った。
引用旗艦三笠を先頭にした連合艦隊主力がバルチック艦隊を発見したのは午後一時四十分頃であった。 五十五分にはかの有名なZ旗がかかげられた。 「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と。
両艦隊の距離は急速にちぢまってゆく。 二時五分、距離約八千メートルに迫ったとき、旗艦三笠は左折して敵の頭を抑える方向に変針し、各艦これに続いた。 バルチック艦隊の方では、三列で進んできたこれまでの隊形を組みかえ、戦艦を左側に一列に並べて連合艦隊に対抗しようとしたが、 この組みかえにもたつくあいだに、三笠が左折するのをみるや、その転回点をねらっていっせいに砲撃を開始した。 しかし日本側はこれに応ぜず、距離六千メートルまで近づいて初めて、三笠が砲門を開き、 後続各艦もこれにならった。 いよいよ日本海海戦の火ぶたが切られたわけである。 ときに二時十分と記録されている。
海戦は最初の三十分で早くも日本側の優勢が明らかとなった。 砲撃の正確さと砲弾の破壊力で日本の方がまさっていたため、ロシア艦隊は圧せられてしだいに進路を右側に移し、 両艦隊はほとんど並航して砲戦を続けるうち、ロシア側旗艦「スワーロフ」、二番艦「アレクサンドル三世」、 五番艦「オスラービヤ」の三戦艦が火災を起こし、「スワーロフ」、「オスラービヤ」は戦列を離れてしまった。
日本側では巡洋艦浅間が舵をやられて修理のため一時戦列を脱しただけだった。 一時間後にはロシア艦隊は日本艦隊との正面からの対決をやめて、なんとか逃げ出そうとし始めた。 このころすでに、「スワーロフ」の司令塔は破壊され、ロジェストウェンスキー司令長官は砲弾の破片を頭にうけて人事不省におちいっていたし、 「オスラービヤ」はまもなく沈没してしまった。 「スワーロフ」もロジェストウェンスキーを駆逐艦に移したのち、日本の駆逐艦、水雷艇の波状攻撃をうけて、 午後七時すぎ撃沈された。 ロジェストウェンスキーはのち、日本の病院で奇跡的に意識を回復することになる。
さて司令長官を失ったバルチック艦隊は、北に東に南にと航路を変えながら、午後四時頃、一時日本艦隊の追撃をかわしたが、 戦列を整えてふたたび北上したところを、捕捉され、この第二の海戦で戦艦「ボロジノ」「アレクサンドル三世」を撃沈され、 さらに夜に入ると駆逐艦隊、水雷艇隊の猛攻をうけねばならなかった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。