孫文ら、中国同盟会結成 1905/08/20
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taro's トーク
ああああああ
引用日清戦争と義和団事件(一九〇〇年)以後、
中国では列強帝国主義への屈伏と、官僚の腐敗と西太后の極端な反動政治とで各地に革命の機運が興っていた。
南部の広東方面では孫文のひきいる「興中会」、中南部の湖南地方では黄興のひきいる「華興会」、
中部の江蘇方面では章炳麟らのひきいる「光復会」などが主な革命党だったが、党員の多くは日本に亡命していた。
明治三十八年、孫文が欧米の旅から日本にきたのを機会にこれら革命団体が合同して成立したのが
中国革命同盟会で、孫文を総理とし、本部を東京におき、機関紙「民報」を発行して革命の宣伝にあたった。
会の綱領には孫文の「三民主義」(民族、民権、民生)を採用し、清朝の打倒、民国の建設を目標にした。
この同盟会の成立でシナ革命運動はにわかに活発となり、各地でたびたび挙兵が試みなれるようになった。
松本清張 「昭和史発掘(8)」
P.248この本を入手
引用革命には強固な組織と統一した指導がなければならぬ、と人びとが痛感しはじめたとき、
一九〇五年七月、孫文が来日した。
宮崎滔天のあっせんで孫文と黄興の会談が実現し、大同団結は急速に具体化した。
八月二〇日、中国同盟会の結成大会が非公然におこなわれた。
出席者三〇〇余人、興中会、華興会系の活動家ばかりでなく、蔡元培(一八六六〜一九四〇)・秋瑾(一八七七〜一九〇七)ら
浙江籍の革命派がつくった光復会はじめ、多くの地方的グループをふくみ、
本土一八省中、参加者がなかったのは当時留学生のいなかった甘粛だけであった。
大会は孫文を同盟会総理に選び、三民主義を具体化した綱領「韃虜(清朝)を駆除し、
中華を復興し、民国を創立し、地権を平均する」を採択した。
孫文の指導のもとに、ブルジョア民主主義の実現を目的とする革命政党が誕生したのである。
小野信爾 「人民中国への道」
P.86この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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