日露講和会議開催
1905/08/10
世界の注目の集まる中、日露両国の代表がアメリカで激論開始。
    
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/02/24   金子特使渡米
1905/01/02   旅順陥落
1905/03/10   日本軍、奉天占領
1905/04/21   対露講和条件を閣議決定
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/06/01   高平駐米公使、T・ルーズベルト(米)大統領に講和斡旋を要望
1905/06/09   T・ルーズベルト(米)大統領、日露両国に公式に講和を勧告
1905/07/03   小村寿太郎、高平小五郎を日露講和会議全権に任命
1905/07/07   第13師団、南樺太上陸 (07/31 樺太占領)
1905/07/21   山県参謀総長、満州軍を視察
1905/08/10   日露講和会議開催 (アメリカ・ポーツマス/首席全権:小村寿太郎
1905/08/14   桂・原会談
1905/08/22   T・ルーズベルト(米)大統領、金子特使に金銭的要求の放棄を勧告
1905/08/28   御前会議、日露講和成立方針を決定
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/09/05   日比谷焼き打ち事件 (〜09/06)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用ポーツマスの講和会議は八月九日の予備会議から始められた。 日本側全権は小村・高平、ロシア側はウィッテ、ローゼン、予備会議では会議録の作成、随員の出席問題、秘密保持と新聞への発表方法、 会議時間などを決め、翌十日、さっそく第一回正式会議に入った。
小村全権はまず、日本側の講和条件につきロシア側が各個条ごとに意見を述べ、ついで逐条審議に移ることを提議し、 ウィッテの承諾を得て初めて十二ヵ条からなる講和条件を手渡した。 小村としては、ロシア側が条件中に承認できないものがあるという理由で、最初から一括して拒否する態度に出ることを妨げたものであった。 ウィッテは、二日後には早くも回答書を作成し、十日の第二回会議に提出、逐条審議が開始された。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。