日比谷焼き打ち事件
1905/09/05
無賠償の講和に反対の民衆が暴徒化、交番や教会や電車を次々に襲った。
    
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1905/01/02   旅順陥落
1905/03/10   日本軍、奉天占領
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/06/09   T・ルーズベルト(米)大統領、日露両国に公式に講和を勧告
1905/07/07   第13師団、南樺太上陸 (07/31 樺太占領)
1905/08/10   日露講和会議開催 (アメリカ・ポーツマス/首席全権:小村寿太郎
1905/08/14   桂・原会談
1905/08/14   大阪朝日新聞、賠償金要求の不調を号外で報道
1905/08/17   講和問題同志連合大会、講和条件譲歩反対を決議 (東京・明治座)
1905/08/22   T・ルーズベルト(米)大統領、金子特使に金銭的要求の放棄を勧告
1905/08/28   御前会議、日露講和成立方針を決定
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/09/05   講和反対国民大会開催 (東京・日比谷)
1905/09/05   日比谷焼き打ち事件 (〜09/06)
1905/09/06   東京に戒厳令
〜 焼き打ちの拡大 〜
講和反対国民大会 → 日比谷焼き打ち → 東京焼き打ち → 東京に戒厳令
taro's トーク 政権党の某代議士が、日比谷焼き討ち事件は領土の割譲がなかったから起こったのだ、と言っているのを、 taroはテレビで見たことがある。ひどい話だとそのとき思った。 この事件の背景には重税がある。 「坂の上の雲」の中で、司馬遼太郎が「戦争準備の大予算そのものが奇蹟であるが、 それに耐えた国民のほうがむしろ奇蹟であった」と書いている。 それほどの重税に耐え、血を流してやっと手にした勝利の結果が無賠償だったことに国民の一部がキレたのだ。 せめて白いおまんまが食べたいじゃないか、そういう切実な気持ちが講和外交への不満と結びついてこの暴発事件になったのだ。 ついでに言えば、領土の割譲はあった。ポーツマス条約で日本は樺太の南半分を得た。 この代議士は、その放送の直後、内閣改造で大臣になった。ひどい話だ。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「日比谷焼き打ち事件」は「日比谷焼打ち事件」「日比谷焼き討ち事件」「日比谷焼討ち事件」とも表記されることがあります。