韓国併合
1910/08/22
独立国としての韓国が消滅。 名実ともに日本の植民地にされた。
    
1904/02/23   日韓議定書調印
1904/08/22   日韓協約@調印
1905/07/29   桂・タフト協定
1905/08/12   日英同盟A調印
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/11/17   日韓協約A調印
1905/12/20   韓国統監府設置 (12/21 伊藤博文を韓国統監に任命)
1907/07/03   伊藤統監、韓国皇帝にハーグ密使事件を追及
1907/07/19   韓国皇帝、譲位の詔勅を発表
1907/07/24   日韓協約B調印
1907/08/01   韓国軍解散式
1909/07/06   韓国併合を閣議決定
1909/10/26   伊藤博文射殺事件
1910/08/22   韓国併合 (日韓条約調印)
1919/03/01   三・一(万歳)事件 (京城パゴダ広場で朝鮮民衆が独立宣言)
1929/11/03   光州学生運動
〜 韓国は日本のもの 〜
各国はいつ認めたか  ・・・1905年
アメリカ:桂・タフト協定 / イギリス:日英同盟A / ロシア:ポーツマス条約
taro's トーク 昔taroは「韓国併合」を「日韓併合」とよく言いまちがえた。 もしかしたら、テストでもそんなふうに答えてバツをもらったことがあるかもしれない。 今思えば、日本と韓国が合弁したのだという勝手なイメージが強かったから、ついそんなまちがえを繰り返したにちがいない。 韓国を一方的に併合するなどというひどいことを、この日本がするはずがないという拒絶反応が、 無意識に「韓国併合」を「日韓併合」にしてしまったのだ。 韓国併合は多分に形式的なもので、実際には韓国の独立はもっとずっと以前に日本人によって踏みにじられていた。 このことを知ったのはごく最近のことだ。 今は、あえて形式的な韓国併合をしなければならぬほど、日本は韓国人たちの怒りに手を焼いたのだということを知っている。 ちなみに、この場合の「韓国」に「北」も「南」もない。 taroは「北」の罪にも憤るが、わが国の過去の罪にも憤るし、 この罪は時の経過とともに自動的に薄らいでいくといったものではないと思っている。
引用は、ひそかに韓国併合の気運をたかめることにつとめ、時期尚早を口にする小村をはじめ閣僚、元老を説得し、 一進会との連絡も一層強めた。
翌明治四十三年春、は、併合の機運が熟したと判断し、本格的な準備に入った。
小村は、それをうけて危惧されている列国の承認を得る工作にとりかかった。 まず、その年の四月、第二回日露協商の折衝をおこなっていた駐露大使本野一郎に命じ、 日本の韓国併合についてのロシアの意見をたださせたが、ロシア政府は異存なし、と答えた。
その意見交換がイギリス政府にもつたえられ、ロシアと同じように諒承する旨の回答を得た。 また、アメリカもそれを当然のこととして認めたので、列国に対する打診は終り、は、実行に移った。
まず、統監の曾禰を辞任させ、陸相寺内正毅を第三代統監に就任させた。 そして、併合に必要な調査を徹底的におこない、正式に閣議に上程して併合を決定した。 国の名称については、韓国という名称を廃することになり、逓相後藤新平が韓国人の歴史的心理を考えて高麗とする案を出したが、 寺内が朝鮮を強く主張し、これに決定した。
寺内は、七月二十三日、統監として着任、韓国内の情勢を慎重に観察した。 そして、八月十三日、小村に対して決行する旨を打電し、李完用首相を統監部に招いて、併合をつたえた。
寺内の説明をきいた李は、すでにそれを予測し受諾する以外にないとあきらめていたので、内諾した。 が、ただ国号は韓国のままとし、皇帝の尊称ものこして欲しいと要望したが、寺内はそれを拒否し、 皇帝を李王殿下にするよう本国に要請してみる、と答えた。
韓国政府は、緊急閣議をひらいた。 が、学部大臣李容植が頑強に反対しただけで、御前会議で日本の要求を受諾することに決定した。
交渉は急速にすすめられて条約の調印も終り、八月二十九日、日韓両国は併合条約を公布し、韓国は日本に併合させ、 朝鮮と名称を変えた。 これについて、ロシアをはじめイギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、イタリアの諸国も承認する声明を発した。 各国は、それぞれ他国を殖民地として併合していて、日本の韓国併合を不当として責めることができなかったのである。
この併合は、韓国内に衝撃をあたえ、各地に騒乱が起った。 日本政府は、憲兵、警察力を駆使して鎮圧につとめたが、抵抗運動は根強く反復した。
引用桂内閣は 【中略】 幸徳ら検挙の二ヶ月後、四十三年(一九一〇)八月二十二日には韓国併合の条約に調印してしまった。 その第一条は「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を安全且永久に日本国皇帝陛下に譲与する」となっている。
この条約は三代目韓国統監(二代目は曾禰荒助寺内正毅(初代朝鮮総督)と韓国の李完用総理の間に調印され、 韓国皇帝李王は、日本の皇族となり殿下の尊称をもって呼ばれることとなった。
保護国とされた頃から反日感情が高まっていた朝鮮では、この決定で各地に暴動が起きた。 この時弾圧に当ったのは日露戦争当時ヨーロッパでスパイを働き過激派を煽動した明石元二郎少将で、 彼は朝鮮駐屯軍参謀長の職から駐韓憲兵隊司令官に格下げをうけ、この難局に腕を揮った。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。