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韓国併合 1910/08/22
taro's トーク
昔taroは「韓国併合」を「日韓併合」とよく言いまちがえた。
もしかしたら、テストでもそんなふうに答えてバツをもらったことがあるかもしれない。
今思えば、日本と韓国が合弁したのだという勝手なイメージが強かったから、ついそんなまちがえを繰り返したにちがいない。
韓国を一方的に併合するなどというひどいことを、この日本がするはずがないという拒絶反応が、
無意識に「韓国併合」を「日韓併合」にしてしまったのだ。
韓国併合は多分に形式的なもので、実際には韓国の独立はもっとずっと以前に日本人によって踏みにじられていた。
このことを知ったのはごく最近のことだ。
今は、あえて形式的な韓国併合をしなければならぬほど、日本は韓国人たちの怒りに手を焼いたのだということを知っている。
ちなみに、この場合の「韓国」に「北」も「南」もない。
taroは「北」の罪にも憤るが、わが国の過去の罪にも憤るし、
この罪は時の経過とともに自動的に薄らいでいくといったものではないと思っている。
翌明治四十三年春、桂は、併合の機運が熟したと判断し、本格的な準備に入った。
小村は、それをうけて危惧されている列国の承認を得る工作にとりかかった。
まず、その年の四月、第二回日露協商の折衝をおこなっていた駐露大使本野一郎に命じ、
日本の韓国併合についてのロシアの意見をたださせたが、ロシア政府は異存なし、と答えた。
その意見交換がイギリス政府にもつたえられ、ロシアと同じように諒承する旨の回答を得た。
また、アメリカもそれを当然のこととして認めたので、列国に対する打診は終り、桂は、実行に移った。
まず、統監の曾禰を辞任させ、陸相寺内正毅を第三代統監に就任させた。
そして、併合に必要な調査を徹底的におこない、正式に閣議に上程して併合を決定した。
国の名称については、韓国という名称を廃することになり、逓相後藤新平が韓国人の歴史的心理を考えて高麗とする案を出したが、
桂と寺内が朝鮮を強く主張し、これに決定した。
寺内の説明をきいた李は、すでにそれを予測し受諾する以外にないとあきらめていたので、内諾した。
が、ただ国号は韓国のままとし、皇帝の尊称ものこして欲しいと要望したが、寺内はそれを拒否し、
皇帝を李王殿下にするよう本国に要請してみる、と答えた。
韓国政府は、緊急閣議をひらいた。
が、学部大臣李容植が頑強に反対しただけで、御前会議で日本の要求を受諾することに決定した。
交渉は急速にすすめられて条約の調印も終り、八月二十九日、日韓両国は併合条約を公布し、韓国は日本に併合させ、
朝鮮と名称を変えた。
これについて、ロシアをはじめイギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、イタリアの諸国も承認する声明を発した。
各国は、それぞれ他国を殖民地として併合していて、日本の韓国併合を不当として責めることができなかったのである。
この併合は、韓国内に衝撃をあたえ、各地に騒乱が起った。
日本政府は、憲兵、警察力を駆使して鎮圧につとめたが、抵抗運動は根強く反復した。
吉村昭 「ポーツマスの旗」
P.351この本を入手
引用桂内閣は 【中略】 幸徳ら検挙の二ヶ月後、四十三年(一九一〇)八月二十二日には韓国併合の条約に調印してしまった。
その第一条は「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を安全且永久に日本国皇帝陛下に譲与する」となっている。
保護国とされた頃から反日感情が高まっていた朝鮮では、この決定で各地に暴動が起きた。
この時弾圧に当ったのは日露戦争当時ヨーロッパでスパイを働き過激派を煽動した明石元二郎少将で、
彼は朝鮮駐屯軍参謀長の職から駐韓憲兵隊司令官に格下げをうけ、この難局に腕を揮った。
豊田穣 「西園寺公望(上)」
P.406この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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