袁世凱、臨時大総統就任
1912/03/10
北洋軍閥を背景に、清朝の首相孫文ら革命派と取引してちゃっかり臨時大総統に。
    
1905/08/20   孫文ら、中国同盟会結成 (東京)
1910/02/12   中国革命同盟会、広東で蜂起
1911/10/10   辛亥革命勃発 (武昌蜂起)
1911/10/28   黄興・宋教仁・北一輝ら、上海から武昌に到着
1911/11/01   清国政府、袁世凱を総理大臣に任命
1911/12/25   孫文、上海に到着
1911/12/29   17省代表会議、孫文を中華民国臨時大総統に選出 (南京)
1912/01/01   南京臨時政府成立 (臨時大総統:孫文
1912/02/12   宣統帝(溥儀)退位 (清朝滅亡)
1912/03/10   袁世凱、臨時大総統就任
1912/03/11   孫文、中華民国臨時約法を公布
1912/04/01   孫文、臨時大総統辞任
1913/03/20   宋教仁暗殺事件 (03/22 没/中)
1913/07/12   中国・江西省で、第2革命勃発 (〜09/01)
1913/08/05   孫文、台湾へ亡命 (広東の独立失敗)
1913/09/01   袁軍、南京占領 (第2革命失敗)
1913/10/10   袁世凱、中華民国大総統就任
1914/01/10   袁世凱、国会議員の職務を停止
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taro's トーク ああああああ
引用北方軍閥の袁世凱は、南方政府が成立するのを待って和議を申込んできた。 李鴻章の幕僚として前から外国に信望があり、とくにイギリスは清朝没落後、によって自国の利益を図ろうとした。 イギリスの政策に追随する日本もこれに従ったが、はこうした列強の経済的援助を背景に、 有利な位置から南京政府との和議を提唱したのである。 そのかげにはイギリスの策動があった。 これに対し、南京の革命政権は財政的に困窮していた。 その上、革命を遂行するには内部の団結にも意志にも欠けていた。
結局、孫文と妥協することに決し、が臨時大総統となった。 しかし、は約束通りには南京に来らず、政府をも北京に移してしまった。 こうして「共和制」は名前のみとなった。 孫文の「弱腰」は責められるべきだろう。 のち蒋介石の国民党軍の北伐にいたるまで軍閥政権がつづく。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。