乃木希典殉死
1912/09/13
明治天皇大喪のその日、忠義の人・乃木は夫人とともに主君の後を追った。
    
1912/07/20   宮内省、天皇重態を発表
1912/07/29   明治天皇崩御
1912/07/30   宮内省、明治天皇崩御を発表 (大正天皇即位)
1912/07/30   主要新聞各紙、全ページを黒枠で囲む (〜09/17)
1912/09/13   明治天皇大喪
1912/09/13   乃木希典殉死
1912/12/19   憲政擁護連合大会@ (護憲運動@開始)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用大正元年九月十三日、御大喪が青山の葬場殿で行われた。 これより先八月二十三日第二十九臨時議会が召集され、三日間で百五十四万円の御大喪予算を可決した。
御大喪は伏見宮貞愛親王を総裁に、宮相渡辺千秋を副総裁として行われた。
この夜、乃木大将が夫人静子と共に殉死したことは有名である。 乃木は西南戦争のとき連隊長として軍旗を奪われたときに自殺を計って、親友の児玉源太郎に止められて以来、 死への志向を抱いていた。 二〇三高地の戦いで多くの戦死者を出してから、その志向は念願と変っていた。 第三軍司令官更迭の議がもち上がったとき、天皇は、「今代えてはいかん。 今代えると乃木は生きてはいまい」と言ってこれを遮った。 これを聞いて乃木の死は確実なものとなった。 勝典保典の二児を旅順で失ったことが天皇への(国民よりも)せめてもの申し訳であった。
【中略】
乃木は藩閥が権力争いに終始する時代に絶望して憤死したとする説も一方にはある。
判沢弘氏(早大講師)の『自殺の理由』(「プレジデント」昭五六・二、特集・乃木希典)は憤死の根拠を維新の元勲とくに長州閥の乱行、 勢力争い、口には忠義を言いながら実際には勢力争いに明けくれる山県寺内らの流しつつある害毒に乃木が憤激したものだとしている。 乃木はそのような遺言書を残しており、殉死の二日前に山県を訪問して「軍隊を私兵化せざること」等の厳しい意見書を手交し、 この文書の内容を天皇に上奏してもらいたい、と迫っている。 吉田松陰によって純忠を教えられた乃木の精神主義が示した最後の抵抗である。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。