桂首相、新党結成計画発表
1913/01/20
護憲派の切り崩しを狙って、桂首相が新党構想をぶちあげた。
    
1912/12/02   上原陸相、帷幄上奏で単独辞任
1912/12/05   西園寺内閣A総辞職
1912/12/17   桂太郎に組閣命令
1912/12/17   斉藤海相、留任拒否 (12/21 勅命により留任)
1912/12/19   憲政擁護連合大会@ (護憲運動@開始)
1912/12/21   桂内閣B成立 (首相:桂太郎
1913/01/20   桂首相、新党結成計画発表
1913/02/09   西園寺(政友会総裁)に「内閣不信任案撤回」の詔勅
1913/02/10   護憲派の民衆、議会を包囲 (桂首相、総辞職を決意)
1913/02/11   桂内閣B総辞職 (大正政変)
1913/06/13   軍部大臣現役武官制廃止
1913/10/10   桂太郎
1913/12/23   立憲同志会結成 (総裁:加藤高明
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用第四次伊藤内閣において加藤が初めて外相になったのは、伊藤と三菱の関係によるものである。 そして第一次西園寺内閣にも外相となったのは政界を去る伊藤の置き土産であった。 加藤はこの内閣で三菱の利益を守る為、鉄道国有法案に反対して内閣を去った。 しかし、今回西園寺の敵であるの内閣に登場してきたのはなぜか。
が元老政治の限界を知って新政党を組織しようと考えたのは、 右の鉄道国有法案の頃からだといわれる。 よりも三菱が元老の力だけには頼れず、政友会と拮抗する力のある政党の育成を考えた為と言ってもよいかも知れない。
三菱系策士の最初の政治結社である戊申倶楽部が出来たのは明治四十一年であるが、 この中から片岡直温(日本生命保険創立者、憲政会代議士)仙石貢(鉄道官僚、九州鉄道社長)ら土佐派代議士が出て憲政本党に合し、 準三菱党といわれる立憲国民党が出来るのが四十三年三月である。
この頃からと国民党を結ぼうという動きが見られたが、国民党は創立のときから民党に徹する理想主義の犬養と、 大合同をして大政党をめざす豊川良平(三菱の大番頭、銀行、郵船、水力、肥料等を経営)、大石正巳(改進党系、第一次大隈内閣の農商務相)、 片岡、仙石らとは分裂していた。
この合同派は“改革派”と呼ばれていたが、この年(大正二年)一月、大石、島田三郎、河野広中、武富時敏、箕浦勝人らを中心として脱党し、 の立憲同志会に参加したのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。