宋教仁暗殺事件
1913/03/20
辛亥革命リーダー袁世凱の刺客に上海で暗殺される。
    
1905/08/20   孫文ら、中国同盟会結成 (東京)
1911/10/10   辛亥革命勃発 (武昌蜂起)
1911/10/28   黄興・宋教仁・北一輝ら、上海から武昌に到着
1911/11/01   清国政府、袁世凱を総理大臣に任命
1911/12/29   17省代表会議、孫文を中華民国臨時大総統に選出 (南京)
1912/01/01   南京臨時政府成立 (臨時大総統:孫文
1912/02/12   宣統帝(溥儀)退位 (清朝滅亡)
1912/03/10   袁世凱、臨時大総統就任
1912/03/11   孫文、中華民国臨時約法を公布
1912/04/01   孫文、臨時大総統辞任
1913/03/20   宋教仁暗殺事件 (03/22 没/中)
1913/07/12   中国・江西省で、第2革命勃発 (〜09/01)
1913/08/05   孫文、台湾へ亡命 (広東の独立失敗)
1913/09/01   袁軍、南京占領 (第2革命失敗)
1913/10/10   袁世凱、中華民国大総統就任
1914/01/10   袁世凱、国会議員の職務を停止
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用宋教仁は共和政体(かたちの上だけでも)を利用して 議会の多数党で袁世凱を抑えようとし、国民党を組織した(理事長孫文)。 一九一三年(大正二年)二月の総選挙では国民党だけでも三百九十二人の議員が当選し、の与党を圧した。 の体当り的な活躍がみのったのである。
ところが、その総選挙後一ヵ月余の三月二十日、宋教仁袁世凱の放った刺客のために上海停車場で黄興と 話しているところを射殺された。犯人は逃走した。は三十二歳の若さであった。
袁世凱孫文より宋教仁をおそれていた。
引用袁世凱は独裁権を確立するために手段を選ばなかった。 一九一三年三月、彼は刺客を放って最大の敵手と目されていた宋教仁を暗殺した。 宋教仁は、同盟会を中心に、群小政党をあわせて国民党を結成し、前年末から行なわれた最初の総選挙で、 国民党を第一党に導いていた。 議会内で責任内閣制を樹立して袁世凱を牽制しようというのが国民党の方針であり、 宋教仁は新議会で国務総理に予定されていたのである。 中心を失って、国民党の結束はもろくも崩れ、に対して有効な対抗策を講ずることができなくなった。
引用宋教仁は国会選挙のために、同盟会を国民党に改組することに熱中した。 議会で多数を占めて国民党の責任内閣をつくれば、袁世凱は名目だけの元首になる、 というのが宋教仁の考えであった。 そのため、同盟会の綱領から「男女同権」をはじめ、反封建主義・反帝国主義の革命的内容をけずり、 多くの政客や反動分子さえも国民党にひきいれた。
かれの努力は報われた。 一二年の末からはじまった国会選挙で、国民党は圧倒的な多数を獲得した。 事実上の党首として、次期の総理就任が確実となった宋教仁は、勝利に酔って全国遊説していたが、 一三年三月二〇日、袁世凱が放った刺客のため、上海駅頭で暗殺された。
真相はたちまち明るみに出た。 革命派はの悪辣さに戦慄し、幻想はふっとんだ。 だが、即時討を主張した孫文にたいし、黄興らは合法手段による解決をいい、 革命派の足なみは乱れた。 陰謀を暴露されて開き直った袁世凱は、四月、議会を無視して列強と「善後大借款」二五〇〇万ポンドの契約を結んだ。 子飼の軍隊を拡充し、南方諸省の革命勢力を武力で圧倒する準備をととのえるためであった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。