マルヌの戦い
1914/09/05
西部戦線のドイツ軍、快進撃ストップ。 必勝のシュリーフェン・プラン、マルヌ川で挫折。
    
1914/06/28   サラエボ事件 (オーストリア皇太子夫妻暗殺)
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1914/08/03   ドイツ、ベルギーへの侵入開始 (対仏宣戦布告)
1914/08/04   イギリス、ドイツに宣戦布告
1914/08/26   タンネンベルクの戦い (〜08/30)
1914/09/02   青島出兵 (日本軍、山東半島上陸開始)
1914/09/05   英仏露3国、ロンドンで単独不講和を宣言
1914/09/05   マルヌの戦い (〜09/12/西部戦線膠着)
1915/02/04   ドイツ、対英封鎖宣言
1915/04/22   ドイツ軍、毒ガスを使用 (イプルの戦い/〜05/25)
1915/04/26   ロンドン秘密条約調印 (英・仏・露・伊/イタリア、参戦を約束)
1915/05/23   イタリア、対オーストリア宣戦布告
1916/02/21   ヴェルダン要塞攻防戦 (〜07/11)
1916/07/01   ソンムの戦い (〜11/18)
1917/04/06   アメリカ、対独参戦
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taro's トーク ああああああ
引用大戦は、ドイツ側の攻勢で始まった。 シュリーフェン計画に従って、ドイツ軍主力は時計仕掛けのような正確さで西部国境に集結した。 二週間に二二万両を超える鉄道輸送によって、一六〇万の兵員がケルンのライン川鉄橋を渡り、中立国ベルギーに侵入した。 そこからフランスに進撃し、ドイツ・フランス国境地域に展開したフランス軍を背後から包囲、降伏させようというのである。 開戦後一ヵ月間は、ほぼ計画通りにいった。
フランス政府は九月はじめ、危機の迫ったパリからボルドーへ疎開した。 フランス軍のジョッフル総司令官は、緒戦に敗北した軍団・師団司令官一四〇名を罷免する峻厳な指揮で防衛陣を立て直し、 パリ防衛に全力をあげた。 九月のマルヌの戦いで「不敗のドイツ軍」はついに後退した。 開戦一ヵ月半で、「電撃戦のばくち」、シュリーフェン計画は破綻した。 神経の細いモルトケ参謀総長はショックから立ち直れず、ファルケンハインに後を譲った。 現在では、シュリーフェン計画の失敗は、戦術や技術的な原因より、作戦計画そのものに無理があったとみなされている。
シュリーフェン計画では、ドイツ軍はいわば半円を描くように、ベルギーからドイツ・フランス国境に進撃することになっていた。 そのために円のもっとも外側の部隊は、酷暑のなか、武器弾薬・重い背嚢を背負い、戦闘を交えながら、 休むことなく一日三、四十キロ以上を歩き通さなければならなかった。 しかも、これらの兵士たちはフランス軍に勝利したのち、すぐに東部戦線に転進してロシア軍と戦うことになっていた。 これでは、ドイツの兵士は国際級のトライアスロン選手でなければならなかったろう。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。