対華21ヵ条要求
1915/01/18
大戦のどさくさに紛れて中国に21ヵ条を要求、世界中から反発と顰蹙を買った。
    
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1914/08/23   対独参戦 (宣戦布告)
1914/09/02   青島出兵 (日本軍、山東半島上陸開始)
1914/11/07   日本軍、青島占領
1915/01/18   対華21ヵ条要求 (外相:加藤高明
1915/02/15   シカゴ・ヘラルド、対華21ヵ条要求の全条項を暴露
1915/02/20   アメリカ、対華21ヵ条要求の秘密条項(第5号)について問い合わせ
1915/03/16   ブライアン(米)国務長官、対華21ヵ条要求の一部に不同意を表明
1915/04/26   対華21ヵ条要求最終修正案を中国政府に提出
1915/05/01   中国政府、対華21ヵ条要求最終修正案を拒否 (最終対案を提示)
1915/05/06   アメリカ、英・仏・露に日華交渉への共同干渉を提案 (3国とも拒否)
1915/05/07   日置駐華公使、中国に最後通牒
1915/05/09   中国政府、対華21ヵ条要求を受諾 (中国で国辱記念日となる)
1919/01/18   パリ講和会議開催 (〜06/28/首席全権:西園寺公望
1919/05/04   五・四運動 (天安門広場で学生らがデモ行進)
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1922/02/06   九ヵ国条約調印
〜 目的は1つ 〜
旅順・大連と満鉄は中国からの借り物、返還期限を延ばしたかった
+元老・軍部・財界などからの要求 → 21ヵ条
taro's トーク ああああああ
引用一九一四年、第一次世界大戦が始まった時、日本は連合国側に加担し、 ヨーロッパの戦場では戦わず、東アジアや太平洋地域のドイツの植民地を奪った(そして、 他の同盟国にはそうさせないようにした)。 これらの戦利品の最大のものは、山東省のドイツの支配領域で、青島の重要な軍港と貿易港を含んでいた。
そこで、日本軍は、ドイツ軍と大戦中唯一の地上戦をした。 しかも、カイゼルの小さな守備隊と戦い、ほんのわずかな代償を払っただけで、 無気力になった中国本土の要地―孔子の故地に、根拠を築いた。
一九一五年一月、ヨーロッパ大陸での戦いがヨーロッパの植民地宗主国に出血を強いている時、 日本政府はますます大きな試み―全中国に対する独占的支配を企んだ。 日本政府は、独裁者袁世凱に、最後通牒をもって「二十一ヵ条要求」をつきつけた。 その用紙には大砲の絵がすかし模様で書かれていた。 服従しないなら、武力がものを言うぞ、という威嚇である。
はいくらかの外交的駆け引きをした後、もし要求を十分に呑んだら東京の保護国におとしめられてしまう、 これらの不当な強要の前に腰を屈した。 彼の心は国家の存亡にあったのではなく、彼みずからの戴冠への企みにあった。
引用一九一五年一月、日本は中華民国大総統袁世凱に対して、二十一ヵ条の要求をつきつけた。 山東におけるドイツの権益処分、南満州の既得権益を二十五年から九十九年に延長、中国の政治、財政、軍事に日本人を顧問とする、 必要な地方における警察を日華合同とするなどという途方もない要求だった。
この二十一ヵ条要求は、大隈重信内閣によるものだったが、日本と中国との不幸な関係は、 じつはこのときに始まったといっていいのである。 この二十一ヵ条要求ほど、心ある中国人を憤激させたものはなかったし、それが二十数年後の戦争の伏線ともなったのだ。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「対華21ヵ条要求」は「21ヶ条要求」「21カ条要求」「21か条要求」「二十一ヵ条要求」「二十一ヶ条要求」「二十一カ条要求」「二十一か条要求」と同じ意味です。