復辟事件 1917/07/01
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用段祺瑞は、一九一七年の初夏に、
初期の独裁者袁世凱と同様に簡単に一九一二年の中華民国臨時約法〔臨時憲法〕を蹂躙して、
ドイツに宣戦布告した。
黎総統は段を罷免したが、黎自身、奇怪な「弁髪将軍」張勳によって打倒された。
数千の軍隊を率いるだけのこの将軍は、消滅した王朝への忠誠のしるしに、弁髪を保っていたのである。
満州王家は、短期間、墓から戻された。
その名目上の主人、九歳の前皇帝溥儀は、一九一一年に退位してから、まだ北京の紫禁城に住んでいたが、復位を宣言した。
大衆的な支持のないままに、彼の「治世」は辛うじて一二日間続いた。
袁世凱でさえ、皇帝在位期間はもう少し長く ―三週間だった。
【中略】
この茶番じみたエピソードは、軍閥段が必要としたものだった。
兵隊をもたなかった黎総統は、「弁髪」を倒すために彼を呼び戻さねばならなかった。
再び首相となった段は、この不運な黎総統を人の言うままになる人物〔馮国璋〕と取り替え、
一九一二年に選出され、袁世凱の死後、再召集されていた議会を解散した。
イスラエル・エプシュタイン 「宋慶齢(上)」
P.118
引用北京政局は対独参戦問題で混乱した。
段祺瑞はドイツに宣戦を布告し、参戦軍を編成することを名目にして借款を導入し、
自己の軍備を拡張しようと図った。
これに対して黎元洪は一七年五月、議会を味方にして参戦に反対し、段祺瑞を罷免した。
段祺瑞は各省の督軍を動員して武力で黎元洪を脅迫した。
このとき督軍団の一人として軍隊を率いて北京に入った張勲が、黎元洪に迫って大総統辞職、国会解散を行なわせたあと、
突如クーデターを敢行して、退位していた清朝の宣統帝溥儀をかつぎ出し、
共和制廃止、清朝復活を宣言した(復辟事件)。
この時代錯誤の試みはわずか十三日で失敗し、段祺瑞が国務総理に復帰してドイツに宣戦を布告、
「参戦軍」を拡充した(八月)。
しかも彼は張勲によって廃止された旧約法、旧国会の恢復を拒絶した。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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