十月革命 1917/11/07
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用二十五日、ネヴァ川沿いにあるスモーリヌイ女学校の建物に拠点を築いた軍事革命委員会は、
ケレンスキー首相が執務に使っていた冬宮と「予備議会」が開かれていたマリア宮殿周辺を除く、すべての拠点を制圧した。
午前十時、軍事革命委員会は臨時政府が打倒され、国家権力を掌握したとの声明を出した。
午後一時、ついにマリア宮殿が包囲され、「予備議会」は解散させられた。
臨時政府の閣僚は冬宮にこもっていたが、二十六日未明にはここも襲撃され、大臣たちは逮捕された。
ケレンスキーは二十五日のうちに、女装して市外に逃亡した。
一方、二十五日夜には、スモーリヌイで第二回全ロシア労働者・兵士ソヴィエト大会が開催された。
革命に反対するメンシェヴィキと社会革命党右派は大会から退場した。
ボルシェヴィキが圧倒的多数を占め、このほかに、都市の知識人層を中心とした社会革命党左派やウクライナ社会民主党などが残った。
この大会は二十六日朝まで続けられ、ソヴィエト権力の樹立を宣言したあと、この日の夜に再開された。
ここで採択されたのが、人びとの強い願望の表現でもある「平和に関する布告」と地主による土地所有を廃止する「土地に関する布告」である。
このあと、政府の構成に関して、社会革命党左派は入閣を拒否したため、ボリシェヴィキの単独政権が作られる。
憲法制定会議が招集させるまでの暫定政府である人民委員会会議が成立した。
大臣職は人民委員と称された。
議長はレーニンが、外務人民委員にはトロツキーが、民族問題人民委員にはスターリンが就任した。
ボリシェヴィキ以外の勢力はすべての社会主義党派からなる政府を主張したが、ボリシェヴィキは数でこれを押し切ってしまった。
このように、十月革命には、二月革命時に街頭にあふれた数十万にもおよぶ労働者や兵士の熱狂した姿はみられない。
十月革命は、反議会主義・反自由主義の立場をとるボリシェヴィキが設置した軍事革命委員会による武装蜂起であり、
事実上のクーデタだったのである。
引用第1次世界大戦の長期化は次第に交戦諸国の経済を圧迫するようになってきた。
西欧諸国との交通が途絶え、国内の交通網が未発達のロシアは、ドイツとともに特に深刻な状況に陥っていた。
開戦以来、成人男子の約半数が戦争に動員され、工場労働者の約7割が軍需産業に従事させられていた。
特に都市部では食料と燃料が極度に不足し、人々の苦しみは深く、2月ごろには、首都ペトログラードでは労働者のスト、
デモ、集会が相次ぎ、まさに革命前夜の様相を呈していた。
反乱は3月8日に始まった。
女子繊維労働者がストを起こすと多くの婦人が合流して「パンをよこせ」と叫んだ。
またたく間に大きな騒乱になり、翌日には全市の半数の労働者が職場を放棄して市の中心部の集結、
専制政府の打倒・戦争反対といった政治的要求を掲げた。
当初は鎮圧にあたっていた兵士も労働者に味方し始め、街は無政府状態に。
そして12日(ロシア暦2月27日)、軍隊の多くは革命側につき、首都は労働者と反乱軍によって占拠され、政治犯が解放された。
2月革命である。15日、皇帝ニコライ2世は退位、ロマノフ王朝は滅亡する。
同日、臨時政府ができたが、ブルジョワジー勢力が実権を握ってしまう。
革命勢力を率いていたのはロシア社会民主党のメンシェビキと社会革命党で、
戦争に反対していたボルシェビキは弾圧を受けて弱体化していたのである。
臨時政府は戦争を継続した。このため、民衆の諸要求は反故にされた。
4月、レーニンがスイスから帰国。
「4月テーゼ」を発表し、プロレタリアートと貧農の手に権力を渡すべきだと主張した。
ボルシェビキに支持が集まり出し、労働者はボルシェビキのスローガンを掲げてデモをするようになった。
9月に入ると最高司令官コロニーロフが反旗を翻す。
ケレンスキー政権はボルシェビキの力を得てこれを鎮圧した。
ロシア経済は破局を迎えていた。
レーニンは亡命先のフィンランドから蜂起を呼びかけた。
ペトログラードとモスクワのソビエトを掌握したボルシェビキは11月6日武装蜂起、7日(ロシア暦10月25日)、
ソビエト政権が樹立された。
世界最初の社会主義革命が実現した10月革命である。
この夜の全ロシア・ソビエト大会では全交戦国に即時講和が呼びかけられ、地主の土地の没収、労働者による工場管理、
銀行の国有化などが宣言された。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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