ブレスト・リトフスク条約調印 1918/03/03
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用同盟諸国とロシアとの休戦協定が結ばれたあと、ドイツはブレスト=リトフスクでの講和交渉には応じたが、
「平和の布告」にもりこまれた無併合・無賠償の原則は認めず、領土に関しても厳しい条件をつけた。
一月中旬、レーニンは単独講和の即時締結を提案したが、ボリシェヴィキ指導部にはヨーロッパでの社会主義革命を期待する傾向が強く、
受けいれられなかった。
レーニンは講和交渉引き延ばしの方針で党内の合意をはかった。
しかし、二月に入るとドイツ軍は攻撃を再開し、十二月末の講和提案より厳しい、
ウクライナとバルト地方の独立や巨額の賠償金支払いを内容とするあらたな講和提案を打ち出した。
ボリシェヴィキ指導部の対立は、このドイツ案を受けいれるか否かをめぐり再燃したが、
レーニンが党中央委員会で強く受諾を迫り、受けいれが決められた。
この結果、三月三日、講和条約がブレスト=リトフスク市で締結された。
これに抗議して、ブハーリンは党や政府の職を辞任し、左派社会革命党の人民委員は政府から離脱した。
ソヴィエト政権にとって、ブレスト=リトフスク講和条約は過酷なものであったが、
これによって完全に戦争状態から脱することができた。
国内の混乱はなお続いていたにせよ、第一次世界大戦という戦争のさなかに生じたロシア革命は大きな転機を迎えたのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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