ドイツ軍、西部戦線で大反攻開始
1918/03/21
アメリカ軍が来る前に。 東部戦線の兵力を大投入したドイツ最後の大反撃も、夏に息切れ。
    
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1914/08/03   ドイツ、ベルギーへの侵入開始 (対仏宣戦布告)
1914/08/04   イギリス、ドイツに宣戦布告
1914/08/26   タンネンベルクの戦い (〜08/30)
1914/09/05   マルヌの戦い (〜09/12/西部戦線膠着)
1916/02/21   ヴェルダン要塞攻防戦 (〜07/11)
1916/07/01   ソンムの戦い (〜11/18)
1917/03/15   二月革命 (皇帝ニコライ2世退位、ロマノフ朝滅亡)
1917/04/06   アメリカ、対独参戦
1917/11/07   十月革命 (ソビエト政権成立)
1918/03/03   ブレスト・リトフスク条約調印 (ソビエト政府、独墺と講和)
1918/03/21   ドイツ軍、西部戦線で大反攻開始 (ミヒャエル作戦)
1918/11/03   ドイツ・キール軍港の水兵反乱
1918/11/09   ドイツ革命
1918/11/11   第一次世界大戦終結
1919/01/18   パリ講和会議開催 (〜06/28/首席全権:西園寺公望
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用一八年三月二十一日早朝四時、北フランスのサンカンタンを中心とするイギリス軍戦線を、 ドイツ軍の砲六六〇〇門による大砲撃が襲った。 ドイツ軍最後の大攻勢「ミヒャエル」作戦が開始された。
無制限潜水艦作戦が決定打とならなかった以上、ドイツ軍は主戦場の西部戦線で決着をつけるほかなかった。 一七年末で、在欧アメリカ軍は一四万五〇〇〇人で、まだ前線には配置されていなかった。 「時間がたつほどドイツ軍は不利になる。アメリカ軍が前線に出る前に攻勢を」というのがルーデンドルフらの考えであった。 東部から三〇個師団以上を転送して戦線を補強し、先陣をきる突撃師団には特別食を配給して体力をつけさせ、 準備を徹底的に秘匿したうえで、一か八かの攻撃に出たのである。 作戦名「ミヒャエル」あるいはミヒェルはドイツの守護聖人の名だが、ヤンキーがアメリカ人、 ジョン・ブルがイギリス人を指すように、ドイツ人一般を指す言葉でもある。 作戦は文字通りドイツそのものを賭けた戦いになった。
攻撃は六月まで表面的には成功した。 ドイツでは勝利を祝って、学校に休日が与えられ、最終的勝利への期待から、第八次戦時公債の申し込みは大戦中の最高額に達した。 ドイツ軍は一時マルヌ川も越えたため、パリ市民一〇〇万人がパニックに陥ってパリを脱出し、 フランス政府も再度のパリ離脱を考えたほどであった。 連合軍がフォッシュを在欧連合軍最高司令官に任命し、統一戦争指導体制を実現したのはこのときである。
だが、「ハンマーで敵の戦線のあらゆるところを叩く」というルーデンドルフの戦術は、 目標を曖昧にしたばかりか、肝心のハンマーそのものがあちこち欠け、柄ももろくなっていたことを無視していた。 ドイツ軍兵士は、退却した連合軍が残したすぐれた装備、豊富な食糧に殺到し、 そのために前進が中断したことすらあった。 「わが軍歩兵の敢闘の動機は、略奪欲にある」と、ドイツの一将軍は率直に語っている。 同時に、豊かな物資をみて、多くの前線の将兵が、ドイツの勝利はないという確信をもったのは皮肉である。 ドイツ軍が損失を補充できなかったのに、在欧アメリカ軍は七月末で一〇〇万人に達し、さらに毎月二五万人が大西洋を渡ってきた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。