ドイツ軍、西部戦線で大反攻開始 1918/03/21
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用一八年三月二十一日早朝四時、北フランスのサンカンタンを中心とするイギリス軍戦線を、
ドイツ軍の砲六六〇〇門による大砲撃が襲った。
ドイツ軍最後の大攻勢「ミヒャエル」作戦が開始された。
無制限潜水艦作戦が決定打とならなかった以上、ドイツ軍は主戦場の西部戦線で決着をつけるほかなかった。
一七年末で、在欧アメリカ軍は一四万五〇〇〇人で、まだ前線には配置されていなかった。
「時間がたつほどドイツ軍は不利になる。アメリカ軍が前線に出る前に攻勢を」というのがルーデンドルフらの考えであった。
東部から三〇個師団以上を転送して戦線を補強し、先陣をきる突撃師団には特別食を配給して体力をつけさせ、
準備を徹底的に秘匿したうえで、一か八かの攻撃に出たのである。
作戦名「ミヒャエル」あるいはミヒェルはドイツの守護聖人の名だが、ヤンキーがアメリカ人、
ジョン・ブルがイギリス人を指すように、ドイツ人一般を指す言葉でもある。
作戦は文字通りドイツそのものを賭けた戦いになった。
攻撃は六月まで表面的には成功した。
ドイツでは勝利を祝って、学校に休日が与えられ、最終的勝利への期待から、第八次戦時公債の申し込みは大戦中の最高額に達した。
ドイツ軍は一時マルヌ川も越えたため、パリ市民一〇〇万人がパニックに陥ってパリを脱出し、
フランス政府も再度のパリ離脱を考えたほどであった。
連合軍がフォッシュを在欧連合軍最高司令官に任命し、統一戦争指導体制を実現したのはこのときである。
だが、「ハンマーで敵の戦線のあらゆるところを叩く」というルーデンドルフの戦術は、
目標を曖昧にしたばかりか、肝心のハンマーそのものがあちこち欠け、柄ももろくなっていたことを無視していた。
ドイツ軍兵士は、退却した連合軍が残したすぐれた装備、豊富な食糧に殺到し、
そのために前進が中断したことすらあった。
「わが軍歩兵の敢闘の動機は、略奪欲にある」と、ドイツの一将軍は率直に語っている。
同時に、豊かな物資をみて、多くの前線の将兵が、ドイツの勝利はないという確信をもったのは皮肉である。
ドイツ軍が損失を補充できなかったのに、在欧アメリカ軍は七月末で一〇〇万人に達し、さらに毎月二五万人が大西洋を渡ってきた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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