シベリア出兵宣言
1918/08/02
陸軍が、アメリカの誘いに待ってましたとばかり不毛のシベリア戦争をおっ始めた。
    
1917/11/07   十月革命 (ソビエト政権成立)
1918/01/01   イギリス、珍田駐英大使にウラジオストック共同出兵を提案
1918/03/03   ブレスト・リトフスク条約調印 (ソビエト政府、独墺と講和)
1918/04/05   日英両軍、ウラジオストックに上陸開始
1918/06/21   ロイド・ジョージ(英)首相、珍田駐英大使にシベリア出兵を要請
1918/07/08   アメリカ、チェコ軍救援のためウラジオストック日米共同出兵を提案
1918/07/17   政府、ウラジオストック出兵同意をアメリカに回答 (兵力制限は拒否)
1918/08/02   シベリア出兵宣言
1918/08/03   米騒動 (富山県中新川郡西水橋町→全国に波及)
1918/09/21   寺内内閣総辞職
1918/11/16   アメリカ、出兵数・シベリア鉄道独占などについて日本政府に抗議
1920/04/01   アメリカ、ウラジオストック撤兵完了
1920/05/24   尼港(ニコライエフスク)事件
1922/06/24   シベリア撤兵声明
1922/10/25   シベリア撤兵完了
〜 日本政府内の対立 〜
自主出兵論(シベリアを支配したい) vs (米と対立したくない)協調出兵論
⇒ 米のウラジオ出兵提案で一挙解決(出兵宣言)
taro's トーク ああああああ
引用チェコ人は、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されて以来、たえず独立を企ててきたが、 第一次大戦の勃発は、かれらにとっては、またとないチャンスだった。 ロシア領内のチェコ人は、約五万人のチェコ軍団を結成し、ロシア軍の一隊として、対独戦に加わった。
ところが、ロシアの主権者が変わって、ドイツと戦うことをやめてしまったのである。 チェコ軍団の立場は、すこぶる奇妙なものになった。 チェコ人たちは、あくまでもドイツとの戦いを望んだ。 そこで、シベリアを横断してそこから船でフランスへ行き、あくまでも連合国側に立って戦うことを決め、 ソビエト政権もそれを認めた。
しかし、五万人の大兵力は、反革命派にとっては、大きな魅力であった。 フランスまで行ってドイツと戦うよりも、このままロシアにとどまって、ソビエト政権を倒した方が、 チェコ独立のためには、はるかに有効ではないか。 つまり、ソビエト政権が倒れて、対独戦が再開され、それに勝てば、自然とチェコの独立は達成される、という考え方である。 また、チェコ軍団がそのように動いてくれれば、連合国軍にとっても、都合がいい。
チェコ軍は、いったんウラジオストックまで到着したにもかかわらず、再び鉾先を西へ転じた。
こうなると、連合国側としては、チェコ軍団支援を名目に出兵する口実が生まれた。 とくにイギリスとフランスは、東部戦線が再び火をふき、ドイツ軍の力が二分されることを望んだ。
イギリスは、一九一八年一月に、日本政府に、ウラジオストックの軍需物資確保を名目に、共同出兵を提案してきた。 日本は、一月十二日に軍艦二隻を居留民保護のために送るにとどめた。
イギリスはアメリカに働きかけ、シベリア出兵を説得したが、 ウィルソン大統領は、はじめはこの提案を拒否した。 しかし、そのウィルソンも、フランスの特使としてやってきた哲学者ベルグソンの熱弁を聞いて考え方をかえ、 目的をチェコ軍の救援に限定して、地域もウラジオストックに限るとして、日米両国がそれぞれ七千人を派兵することを、 日本政府に提案するに至った。
軍部はもちろんシベリア出兵に乗り気だった。 いかなる名目であれ、シベリアを占領しておくことは、軍事上防衛上、有利であるとみなしていたのである。
引用大戦末期の一九一八(大正七)年に開始されたシベリア出兵では、 派遣兵力が最大時には七万三〇〇〇、のべ二四万にも及び、国際的悪評以外に何の得るところもなく、 九億円の戦費を費やし三〇〇〇の戦死者を出して、ようやく一九二五年に撤兵が完了した。 したがって、それだけですでに軍に対して強い批判が向けられるに十分だったのだが、 これに加えて軍紀違反が多発したため、さらにいっそう陸軍批判が強まった。 もともと軍紀違反は朝鮮、満州、天津など外地駐屯部隊で目立ったが、 無名の師(大義名分のない出兵)と言われたシベリア出兵では、軍紀弛緩が避けられず、 そのため軍人の非行が多く発生したのである。
原暉之氏や吉田裕氏の研究で紹介されているところによれば、 下士官や兵卒で出兵目的を理解している者は少なく、官費の満州旅行気分の者が多いとの批判があるほど士気は低かった。 初級将校の出す理不尽な命令に不満を漏らす兵がいると、それをすぐ社会主義者だと決めつける傾向があった。 逆に、部下の反抗をおそれて、その機嫌を取る将校もあったという。 ある機関銃隊では、中隊長が兵を殴ったばかりに、中隊全員のリンチを受け重傷を負うという事件が発生した。 こうした軍人の非行、軍紀違反の事実はやがて噂として国内にも伝わり、 陸軍批判の材料となったのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。