パリ講和会議開催 1919/01/18
taro's トーク
ああああああ
引用パリ講和会議は、一九一九年一月一八日に開幕した。
独立国二十七にイギリス自治領五を加え、参加代表団は三十二におよび、代表一千名、記者五百名という空前の会議だった。
「まるでオウム小屋に騒動が起こったようだ」と報道する記者もいた。
会議の実権は、英米仏伊日の五大国がにぎり、とくに、ウイルソン米大統領(六十一歳)、
ロイド・ジョージ英首相(五十六歳)とクレマンソー仏首相(七十六歳)が采配をふるった。
ウイルソンの会議出席に対しては懸念する向きもあったのだが、彼は一世一代の檜舞台で晴れの演技をする意気ごみで、
米代表団の首席代表を買って出た。
当時の人気は素晴らしく、キリストに次ぐ偉大な救世主として礼讃され、平和の天使のように熱烈に歓迎された。
もっとも、ハロルド・ニコルソン ―イギリスの青年外交官 ―などは、
「大統領の声明や演説は、道徳的に次元が高く、われわれは共鳴を惜しまぬが、
米国民とくに議会が果たして支持するかが疑問だった。この疑問が亡霊のように会議場に出没していた」と述べている。
不幸にして、この疑問は適中し、大統領が畢生の大業と考えていた国際連盟さえ、政敵によって否認されるのである。
そればかりではなく、「虎」の別称を持つクレマンソーは、強敵ドイツの再起を阻止することに専念し、
ロイド・ジョージもまた「カイザーを絞首刑にせよ」「ドイツ人のポケットに手を突っこめ」という反独世論に同調したので、
会議はしばしば決裂に瀕した。そのため、ウイルソンは休戦講和の基礎として、
彼が颯爽と提唱した十四ヵ条の理想主義的立場から、大きく撤退せざるを得なかった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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