パリ講和会議開催
1919/01/18
連合国の代表がパリに集まって、ドイツとの講和条件などを話し合った。
    
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1914/08/23   対独参戦 (宣戦布告)
1917/03/15   二月革命 (皇帝ニコライ2世退位、ロマノフ朝滅亡)
1917/04/06   アメリカ、対独参戦
1917/11/07   十月革命 (ソビエト政権成立)
1918/03/03   ブレスト・リトフスク条約調印 (ソビエト政府、独墺と講和)
1918/11/09   ドイツ革命
1918/11/11   第一次世界大戦終結
1919/01/18   パリ講和会議開催 (〜06/28/首席全権:西園寺公望
1919/03/01   三・一(万歳)事件 (京城パゴダ広場で朝鮮民衆が独立宣言)
1919/04/06   非暴力運動@開始 (ガンジーら)
1919/04/23   イタリア、フィウメ帰属問題でパリ講和会議を脱退 (05/06 復帰)
1919/05/04   五・四運動 (天安門広場で学生らがデモ行進)
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1919/07/31   ワイマール憲法成立
1920/01/10   国際連盟発足 (日本、理事国として加盟/提唱国アメリカ不参加)
〜 会議の主役たち 〜
アメリカ代表:ウイルソン / イギリス代表:ロイド・ジョージ / フランス代表:クレマンソー
taro's トーク ああああああ
引用パリ講和会議は、一九一九年一月一八日に開幕した。 独立国二十七にイギリス自治領五を加え、参加代表団は三十二におよび、代表一千名、記者五百名という空前の会議だった。 「まるでオウム小屋に騒動が起こったようだ」と報道する記者もいた。 会議の実権は、英米仏伊日の五大国がにぎり、とくに、ウイルソン米大統領(六十一歳)、 ロイド・ジョージ英首相(五十六歳)とクレマンソー仏首相(七十六歳)が采配をふるった。 ウイルソンの会議出席に対しては懸念する向きもあったのだが、彼は一世一代の檜舞台で晴れの演技をする意気ごみで、 米代表団の首席代表を買って出た。 当時の人気は素晴らしく、キリストに次ぐ偉大な救世主として礼讃され、平和の天使のように熱烈に歓迎された。 もっとも、ハロルド・ニコルソン―イギリスの青年外交官―などは、 「大統領の声明や演説は、道徳的に次元が高く、われわれは共鳴を惜しまぬが、 米国民とくに議会が果たして支持するかが疑問だった。この疑問が亡霊のように会議場に出没していた」と述べている。 不幸にして、この疑問は適中し、大統領が畢生の大業と考えていた国際連盟さえ、政敵によって否認されるのである。 そればかりではなく、「虎」の別称を持つクレマンソーは、強敵ドイツの再起を阻止することに専念し、 ロイド・ジョージもまた「カイザーを絞首刑にせよ」「ドイツ人のポケットに手を突っこめ」という反独世論に同調したので、 会議はしばしば決裂に瀕した。そのため、ウイルソンは休戦講和の基礎として、 彼が颯爽と提唱した十四ヵ条の理想主義的立場から、大きく撤退せざるを得なかった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。