皇太子婚約 1919/06/10
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用御父大正天皇は既に御思考力減退の傾向が見られ、
東宮妃の選定は貞明皇后の手によって進められていた(主婦の友社刊『貞明皇后』一一五ページ)。
貞明皇后が相談相手にされたのは杉浦重剛で、杉浦は大正三年以来東宮御学問所の御用掛を勤め、
帝王学の眼目である倫理を進講した当代随一の傑物である。
杉浦は数ある上流貴族の少女のなかから、容姿、気品、聡明、健康のいずれにおいても、
一番の適格は久邇宮邦彦王第一女良子女王と進言した。
貞明皇后もも女子学習院に行啓になり、詳細御調査の上、良子女王と決定された。その年の秋、
貞明皇后の御意向も固まり、天皇も御承認になったので、宮内大臣波多野敬直は枢府議長の元老山県有朋をはじめ
内大臣その他の賛成を得て、第十五師団長として豊橋に居られた陸軍中将久邇宮邦彦王をその官舎に訪い、
天皇の御意向を伝えた。邦彦王は暫時の猶余を乞われた。
邦彦王が一番心配されたのは色盲の遺伝のことであった。
王妃俔子は島津忠義の娘であり、その生母の父親が色盲であった事から久邇宮家の王子にも色弱の傾向があったからだ。
早速専門医に命じて調査研究せしめた結果、良子女王は健全で子孫に色盲を遺伝することがないという報告書を
図解入りで説明して提出した。
安心された邦彦王は東宮妃の御内約を謹んでお受けすると伝えられた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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