皇太子婚約
1919/06/10
皇后によってお后選びが行なわれ、デートを重ね、この日、晴れて「ご婚約」。
    
1901/04/29   裕仁親王誕生
1912/07/29   明治天皇崩御
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1919/06/10   皇太子婚約
1920/11/11   宮中某重大事件
1921/03/03   皇太子、ヨーロッパ歴訪 (09/03 帰国)
1921/11/25   皇太子摂政就任
1923/09/01   関東大震災
1923/12/27   虎の門事件 (摂政宮襲撃/犯人:難波大助)
1926/12/25   大正天皇崩御 (昭和天皇即位)
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1946/01/01   天皇、人間宣言 (神格化否定の詔書)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用御父大正天皇は既に御思考力減退の傾向が見られ、 東宮妃の選定は貞明皇后の手によって進められていた(主婦の友社刊『貞明皇后』一一五ページ)。 貞明皇后が相談相手にされたのは杉浦重剛で、杉浦は大正三年以来東宮御学問所の御用掛を勤め、 帝王学の眼目である倫理を進講した当代随一の傑物である。 杉浦は数ある上流貴族の少女のなかから、容姿、気品、聡明、健康のいずれにおいても、 一番の適格は久邇宮邦彦王第一女良子女王と進言した。 貞明皇后もも女子学習院に行啓になり、詳細御調査の上、良子女王と決定された。その年の秋、 貞明皇后の御意向も固まり、天皇も御承認になったので、宮内大臣波多野敬直は枢府議長の元老山県有朋をはじめ 内大臣その他の賛成を得て、第十五師団長として豊橋に居られた陸軍中将久邇宮邦彦王をその官舎に訪い、 天皇の御意向を伝えた。邦彦王は暫時の猶余を乞われた。
邦彦王が一番心配されたのは色盲の遺伝のことであった。 王妃俔子は島津忠義の娘であり、その生母の父親が色盲であった事から久邇宮家の王子にも色弱の傾向があったからだ。 早速専門医に命じて調査研究せしめた結果、良子女王は健全で子孫に色盲を遺伝することがないという報告書を 図解入りで説明して提出した。 安心された邦彦王は東宮妃の御内約を謹んでお受けすると伝えられた。
翌大正七年一月十七日宮内省は「久邇宮良子女王を東宮妃に冊立の内約が成立した」と発表し、 三月に入って裕仁親王と良子女王が許婚者として始めてお会いになった。 親王は十七歳、女王は十五歳の春であった。 四月にもまたお会いになり、この時は何枚か記念写真をお撮りになった。 この頃東宮妃御学問所が開設され、良子女王は学習院を退かれてここで将来の皇后としての学徳をお修めになることになった。 杉浦重剛は貞明皇后の思召しにより、やはり倫理担当の御用掛として奉仕することになった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。