ベルサイユ条約調印 1919/06/28
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
「もし真に平和を望むのであれば、ドイツをいかなる自力回生も不可能なほどの貧困と無力状態におとしいれるか、
自由な政府を持たせて人類家族の平和なメンバーにするか、そのどちらかにすべきであった」
フランスの作家J・バンヴィルも同様の感想を述べて、
「この条約は苛酷な点があるにしてはあまりに手ぬるく、
手ぬるい点があるにしては苛酷にすぎる」
引用五ヵ月間かかってまとまった対ドイツ講和条約は、全体で四四〇条におよぶ膨大なものとなった。
第一編は国際連盟の創設を決めたものだが、第二編以下はドイツをきびしく制約するものだった。
ドイツは領土の一部を周辺諸国へ割譲し、海外領土を放棄し、巨額の賠償金を支払うことを求められた。
しかも、五日以内に受諾しなければ、戦争を再開するという強圧的なものだった。
六月二十八日、この条約はヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で調印された。
その日は、かつてオーストリア皇太子が暗殺された日であり、その場所は、かつてフランスがドイツ(プロイセン)に敗れ、
アルザス=ロレーヌ地方を割譲させられた条約を結んだ場所だった。
こうして、条約は「十四ヵ条」とはかなり異なるものになった。
とくに賠償金については、フランスの強硬な主張とイギリスのやや消極的な主張、アメリカの反対が折り合わず、この段階では、
暫定的に戦前の金平価で二〇〇億マルクとなった。
二年後のロンドン会議で、それは七倍ちかい一三二〇億金マルクになった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
|