ベルサイユ条約調印
1919/06/28
第二次世界大戦のタネをまいた 対独講和のベルサイユ条約、 宮殿「鏡の間」で調印。
    
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1914/08/23   対独参戦 (宣戦布告)
1917/03/15   二月革命 (皇帝ニコライ2世退位、ロマノフ朝滅亡)
1917/04/06   アメリカ、対独参戦
1917/11/07   十月革命 (ソビエト政権成立)
1918/03/03   ブレスト・リトフスク条約調印 (ソビエト政府、独墺と講和)
1918/11/09   ドイツ革命
1918/11/11   第一次世界大戦終結
1919/01/18   パリ講和会議開催 (〜06/28/首席全権:西園寺公望
1919/03/01   三・一(万歳)事件 (京城パゴダ広場で朝鮮民衆が独立宣言)
1919/04/06   非暴力運動@開始 (ガンジーら)
1919/04/23   イタリア、フィウメ帰属問題でパリ講和会議を脱退 (05/06 復帰)
1919/05/04   五・四運動 (天安門広場で学生らがデモ行進)
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1920/01/10   国際連盟発足 (日本、理事国として加盟/提唱国アメリカ不参加)
1919/07/31   ワイマール憲法成立
1922/04/16   ラッパロ条約調印 (独ソ国交回復)
1925/10/16   ロカルノ条約仮調印 (12/01 正式調印)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用のちの米大統領H・フーバーは、米代表団の一人としてヴェルサイユ会議に参加したが、条約の不徹底さに注目している。
「もし真に平和を望むのであれば、ドイツをいかなる自力回生も不可能なほどの貧困と無力状態におとしいれるか、 自由な政府を持たせて人類家族の平和なメンバーにするか、そのどちらかにすべきであった」
フランスの作家J・バンヴィルも同様の感想を述べて、
「この条約は苛酷な点があるにしてはあまりに手ぬるく、 手ぬるい点があるにしては苛酷にすぎる」
引用五ヵ月間かかってまとまった対ドイツ講和条約は、全体で四四〇条におよぶ膨大なものとなった。 第一編は国際連盟の創設を決めたものだが、第二編以下はドイツをきびしく制約するものだった。 ドイツは領土の一部を周辺諸国へ割譲し、海外領土を放棄し、巨額の賠償金を支払うことを求められた。 しかも、五日以内に受諾しなければ、戦争を再開するという強圧的なものだった。
六月二十八日、この条約はヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」で調印された。 その日は、かつてオーストリア皇太子が暗殺された日であり、その場所は、かつてフランスがドイツ(プロイセン)に敗れ、 アルザス=ロレーヌ地方を割譲させられた条約を結んだ場所だった。 こうして、条約は「十四ヵ条」とはかなり異なるものになった。 とくに賠償金については、フランスの強硬な主張とイギリスのやや消極的な主張、アメリカの反対が折り合わず、この段階では、 暫定的に戦前の金平価で二〇〇億マルクとなった。 二年後のロンドン会議で、それは七倍ちかい一三二〇億金マルクになった
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。