皇太子、ヨーロッパ歴訪
1921/03/03
つかの間解き放たれたかごの鳥のように、自由とふれあいを満喫。
    
1919/06/10   皇太子婚約
1920/07/24   政府、天皇の病状を発表
1920/11/11   宮中某重大事件
1921/02/10   宮内省、皇太子妃内定に変更なしと発表 (宮中某重大事件解決)
1921/03/03   皇太子、ヨーロッパ歴訪 (09/03 帰国)
1921/11/25   皇太子摂政就任
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用東宮御学問所を修了された皇太子裕仁親王は3月3日、御召艦「香取」、供奉艦「鹿島」を伴い横浜港を出航、 半年間の欧州歴訪の途につかれた。
大正天皇が病弱であったため、宮中には強い反対があったが、原首相らの後押しで訪欧が実行された。
裕仁親王は英、仏、ベルギー、蘭、伊5か国をご視察、9月3日に帰国された。 バッキンガム宮殿での歓迎パーティーで華やかな雰囲気にひたり、スコットランドのアリール公爵の居城で 公爵夫妻が農民らと和気あいあいとパーティーを催す光景を見られた。 パリでは、フォンテーヌブローの森を自動車で走り、地下鉄に乗って買い物を楽しまれるなど、 それまであじわってことのなかった「人」としての自由を味わわれた。 思い出深く有意義なご旅行になったようで、のちに「いまもあのときの経験が役立ち、勉強になって、 今日の私の行動があると思います」と語られた。
外遊中に大正天皇の病状は悪化、11月25日、裕仁親王摂政に就任し、大正天皇の代わりにご公務につかれた。
引用二月二十六日午前七時、秘密結社抹殺社のメンバー六人は外遊中止を叫んで、麻布飯倉片町七番地の西園寺邸に乱入した。 寝ていた八郎は護身用仕込杖を揮って一味と相対し、「殺されても延期は出来ないのだ」と叫んだ。 この時彼は誤って自ら左の小指を傷つけ、また自分の眼鏡をこわして右まぶたに軽傷を負った。 一味に追われた八郎は隣りの相良子爵邸に逃げこんだ。 一味は室内を破壊した後、麻布鳥居坂署に捕えられた。 八郎は小指に繃帯した後、警視庁を訪れ、午後八時宮内庁に登庁した。
三月三日盛大な見送りの内に皇太子裕仁親王を乗せた軍艦香取は横浜港を出港した。 同行は後見役の閑院宮載仁親王、供奉珍田捨巳伯、そして小指の繃帯のとれた西園寺八郎もその中に入っていた。
香取には供奉艦として同型艦の鹿島が同行し、両艦の半年間の費用が四百四十二万円と議会で採決され、 その他の費用は外務省及び大公使館の経費二百八十万円、外遊中の旅費(慈善団体への寄付、レセプション費、ホテル代、 馬車運賃、チップ、ショッピング等の宮廷費)二百万円、総計一千万円に近いといわれた。 その中には各国で君主、高官に贈呈する勲章(大勲位菊花大授章から勲八等まで)五百個、美術品三百個も入っていた。 時価として現在(昭和五十六年)の二百億円以上に上る。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。