バーデン・バーデンの密約
1921/10/27
ドイツの保養地に陸士同期の3少佐が集合、陸軍改革を誓い合った。
    
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1914/08/23   対独参戦 (宣戦布告)
1917/03/15   二月革命 (皇帝ニコライ2世退位、ロマノフ朝滅亡)
1917/11/07   十月革命 (ソビエト政権成立)
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1920/11/11   宮中某重大事件
1921/03/03   皇太子、ヨーロッパ歴訪 (09/03 帰国)
1921/05/05   連合国、賠償金1320億金マルクの支払計画受諾をドイツに要求
1921/10/27   バーデン・バーデンの密約
1921/11/11   ファシスト党結成 (ローマ)
1921/11/25   皇太子摂政就任
1928/06/04   満州某重大事件 (張作霖爆殺)
1929/05/19   一夕会結成
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用一九二一(大正十)年十月、ヨーロッパ出張中の岡村寧次少佐(一六期)が、 陸士同期生でロシア駐在武官(ロシアに入国できずベルリン滞在中)の小畑敏四郎少佐、 スイス駐在武官の永田鐵山少佐とドイツの保養地バーデン・バーデンに会し、 陸軍の革新に向けて同志を募り協力することを誓い合った。 その革新とは、派閥を解消して人事を刷新すること、軍制改革を進めて総動員体制を確立すること、であったとされる。 当時ドイツには東條英機少佐も滞在していたので、彼もこの同志に加わったという。
はたして、この会合がそれほど画期的なものだったのか、またそこで盟約と呼ばれるほどのものが取り決められたのか、 これはいささか疑問である。 筒井清忠氏が指摘するように、彼らは以前から軍の革新の必要性を語り合っていただろうし、 ドイツでの会合も海外に勤務する同期生が久しぶりで会って語り明かしたという程度のことだったのだろう。 ただ、この三人あるいは東條を加えた四人が、帰国したあと同志を集めて陸軍革新の動きの核となったことは間違いない。
引用大正十年秋、ベルリンの大使館にひとりの軍人が立ち寄った。 岡村寧次、陸士十六期、陸大二十五期の中堅将校だった。 歩兵第十四連隊付の肩書でヨーロッパ出張を命じられ、ベルリンに来たのである。 中国での駐在を終え、とくに目的もなく「ヨーロッパを見てこい」と送りだされた旅行だった。 軍内要職に進む者に必須のヨーロッパ見聞旅行であった。
岡村はある計画をもっていた。モスクワに駐在している小畑敏四郎、やはりスイス公使館付武官の肩書で スイス、フランス、ドイツを回っている永田鉄山、それに岡村の三人は同期生の縁で ドイツのバーデンバーデンで会い、密約を交わしていた。 日本陸軍改革のために手を携えて起ちあがろうとの意思のもとに三つの目標を定めていた。 その密約に、ベルリンにいる東條も加えようというのが彼らの肚づもりだった。
「どうだ、貴様もわれわれの意思に同意せんか」
岡村は東條のアパートで熱心に口説いた。
「長州閥を解消し人事を刷新するのが第一点、つぎに統帥を国務から明確に分離し、 政治の側から軍の増師には一切口出しを許さぬようにすること、そして国家総動員体制の確立が第三点だ」
いずれも東條には共鳴できる目標だった。
岡村によれば、永田小畑も先人の愚行に眉をひそめ、 「長州出身というだけでなぜ重用されるのか」と、三人は名前を挙げて人事の不公正を確かめあったという。 こうした先人たちに新しい時代に対応できる感覚があるというのか。 いまや戦術戦史もドイツの天才的軍人ルーデンドルフの説く総力戦体制の時代になっている。 戦争は軍人だけのものではない。 国家のあらゆる部門を戦争完遂に向けなければならない。 それがドイツでの教訓ではないか。日清、日露を戦った軍の長老にこれがわかるというのか。 岡村の言は激しいものだった。
「新たに閥をつくるというのではない。 それではせっかくの長閥打倒も意味がなくなってしまう。 さしあたりは、永田が国家総力戦の文書をまとめて局長に具申している。 われわれはそれを支えなければならぬ」
その意見にも東條は賛成であった。
「岡村さん、実は、私も同じことを考えていました。 まったく異論はありません。ぜひ同志に加えてください。 相結んで協力していきたいと思います」
「よし、それでは永田小畑にも貴様の意思を伝えておこう」
東條の強い調子に、岡村は意を強くした。 この男の父親を見れば、密約に加わるのは当然だと思っていたのが、はからずも当たったからである。
引用福田 【中略】 一九二一(大正10)年、のちの陸軍の中枢をになう小畑敏四郎、岡村寧次、永田鉄山といった連中が ドイツの有名な温泉保養地に集まり、陸軍の改革を誓いあって交わした「バーデンバーデンの密約」というものがあります。 その席で彼らが一致して評価したのは、結局、負けた側、ドイツ軍のエーリヒ・ルーデンドルフ参謀次長の戦略なんです。 もちろんこれはタンネンベルクの殲滅戦という、現場指揮官としてほれぼれするような大成功を目にしたせいもあるでしょうが、 最終的には持久戦に負けてしまったドイツの総力戦体制を非常に評価して、これと同じものをつくればいいと考えてしまう。 戦後、ルーデンドルフは、ドイツは国内世論の分裂によって負けたのだ、と責任回避をしたのですが、 東條英機らはそれを真に受けて、国内の反対世論を抑え込めればいいのだというようなかたちの解釈をしてしまった。
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