加藤(友)内閣総辞職 1923/08/25
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
七月二十七日閣議の後加藤は激しい下痢を起こして倒れ、八月十九日付の「東日」は総理の病気は不治の癌疾であるという記事をのせた。
加藤の死は政党にとっては中間内閣のいわばつなぎの総理の死にすぎなかったが、
海軍にとってその損失は大きかった。
日露の戦捷によって、海軍の提督たちが世界を圧する大艦隊を夢みていたときに、
加藤は財政に注目して軍縮に踏み切った近代的な提督であった。
この後日本海軍は、軍縮の路線を守ろうとする条約派と、再度艦隊増強を計る艦隊派が激しく拮抗し、
ロンドン条約では一応条約派が筋を通すが、怒った艦隊派は統帥権干犯という宝刀を抜いてその主張を世間に押し拡げ、
ついて五・一五事件によって政党政治に痛撃を加えるに至った。
統帥力のある加藤が生きていたなら、日本の海軍も、ひいては太平洋戦争に至る日本の在り方も変ったものになったのではないか、
というのが、海軍史を学ぶ人の常識となっている。
豊田穣 「西園寺公望(下)」
P.183この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「加藤(友)内閣」は「加藤友三郎内閣」と同じ意味です。 |