孫文病死 1925/03/12
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用三月の初め、もはやペットから起きあがることができなかったものの、
彼はまだ、側近の背が高い李栄や、背が低くずんぐりした馬湘と冗談を交わすことができた。
彼は体を動かされる時、この二人に別々に頭と脚をもってもらった。
三月一一日、すでに危篤状態の中で、彼は小さな孫息子、孫治平〔先妻との子、孫科の子供〕を呼び入れ、
いまは病気が悪くて起きることができないけれども、おじいちゃんは、よくなったら、
またすぐに坊やといっしょに遊ぶから、とやさしく約束した。
彼のそばで、慶齢は時折「ダーリン、何かして差し上げることがありますか」と英語でたずねるのだった。
一度、彼は、ベットから床に降ろして寝かせてくれと頼んだので、彼女が「冷たすぎます」と反対したところ、
彼は微笑み返して、「冷たいのなんかこわくない。氷の上に寝るほうがもっと楽になる」と言った。
それは死体安置室のことを意味したので、彼女はワッと泣き崩れた。
「ダーリン、取り乱してはいけません。私のものは、すべてあなたのものです」と彼は彼女を慰めた。
「私が欲しいのは、私が愛しているのは、あなただけです」と彼女は答えた。
その同じ日、孫文は、何香凝に広州への電報による指示を命じた
―北伐を準備中の軍隊は人民を困らせるようなことがあってはならない、という内容のものであった。
また、彼は、この年上の女性に〔「おばさん」と日本語で呼びかけ〕「妻のことを頼みます」と懇願し、
忠実な警護の副官たちをちらりと見て、「革命政府が続くかぎり、彼らを任用しつづけてください」と約束してもらった。
すすり泣く慶齢に手を支えられて、彼は三通の遺書に署名した。
それは早くから準備されていたが、彼女を混乱に陥れないように延期していた、彼の最後の仕事だった。
一つは、彼の私的な遺言だった。
「私は国事に没頭して、家族のために財産を残せなかった。
私の所有物のすべて宋慶齢に遺贈する。私の息子と娘は成人しているので、自活することができる」
―家と書籍 ―は、
記念として、わが愛する妻、次に、彼の政治的遺嘱。
「四〇年間、私は国民革命の大目的のために貢献してきた。
その目的は中国を独立と平等の地位にまで引き上げることであった。
これら四〇年間の経験が、この目標に達するためには人民が目覚めて立ち上がらなければならないこと、
われわれは、対等にわれわれを遇する世界の人民と共通の戦いの中で力を合わせねばならないことを、私に確信させた。
革命はいまだなお成功していない。
同志諸君には、私の著作
―『建国方略』『建国大綱』『三民主義』
および『第一次全国代表大会宣言』にもとづき、継続して努力し、その貫徹を期せられたい。
とくに国民会議開催および不平等条約の撤廃は、短期間においてその実現を促進されたい。三月一一日」
三つめのものは、ソ連政府の中央執行委員会宛の書簡だった。
「親愛なる同志諸君へ
私は不治の病気で、病床にあります。
私の思いは、貴国に向かい、またわが党や国の将来に向かっています。
貴国は自由な共和国の大連合の頂点にあります。
この連合は、不朽のレーニンが被圧迫民族に遺した真の遺産であります。
この遺産を通して、帝国主義の犠牲者たちは、古来の奴隷制度や戦争や不義に根ざす国際的な体系から、
必ずや解放され、救出されるはずであります。
私は、国民党を遺していきます。
帝国主義支配から中国や他の搾取されている国々を解放する歴史的な事業において、
この党が貴国と力を合わせることを願っています。
運命によって、私はこの未完の任務を、
国民党の主義と教訓に忠実で、私の真の後継者にふさわしい人びとに託さなければなりません。
それゆえに、私は中国が、帝国主義が強いた半植民地的地位から解放されることを目指して
国民革命運動の活動を続けるように、国民党に命じました。
この最後の日、この目的達成のため、私は国民党に、貴国と絶えず連絡をとるように命じました。
また、私は、貴国政府がいままでにわが国に差しのべた支持を継続すると確信しています。
親愛なる同志諸君、あなた方との告別にあたり、私は熱い希望を表明いたします。
すなわち、久しからずして夜が明け、ソ連邦が強盛かつ独立の中国を友人として、同盟者として迎え、
この両同盟国が、世界の抑圧された人民の解放のための偉大な闘いの中で勝利を得るために、
ともに手をたずさえて前進することを願います」
三月一一日、彼の人生の最後の日に、彼は午後八時三〇分まで、何人もの人に話しかけた。
三月一一日、彼は口ごもり、午後には、もはやその言うことは首尾一貫していなかった。
単純な言葉を話すのがやっと聞き取れ、四時三〇分には「ダーリン」と慶齢を呼び、
六時三〇分には「精衛」と、当時彼の身近にいた部下、汪精衛を呼んだ。
公的な問題に関する彼の最後の発言は、「平和・・・・・・闘争・・・・・・中国を救え」であったといわれる。
三月一二日の朝、彼の心臓は鼓動するのを止めた。
彼はまだ五九歳だった。彼の宋慶齢との結婚生活は、一〇年間に満たなかった。
イスラエル・エプシュタイン 「宋慶齢(上)」
P.191
引用北京に着いた孫文は熱狂的な歓迎を受けた。
だが真の民意を結集するという彼の方針は、既成の軍閥や官僚を寄せ集めた「善後会議」によって、
とりあえず中央政府の形式を整えようとする段祺瑞らとの間に、とうてい一致点を見出せるものではなかった。
しかも孫文は北京に着くと同時に入院して肝臓がんの手術を受け、病状は絶望的であった。
国民会議促成会全国代表大会が北京で開かれているさなかの一九二五年三月十二日、
孫文は次の遺嘱を残して五十九歳の生涯を閉じた。
「余、力を国民革命に致すこと凡そ四十年、その目的は中国の自由・平等を求むるにあり。
四十年の経験を積みて深く知る。
この目的に到達せんと欲すれば、必ず須らく民衆を喚起し、世界の平等をもって我を待する民族と連合し、
共同奮闘すべきことを。
現在、革命なお未だ成功せず、凡そ我が同志は須らく・・・・・・継続努力して以て貫徹を求めよ」
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.107この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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