山本宣治、政府の弾圧政策を追及 1929/02/08
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ヤマセンは追及した、議会の場で、大日本帝国政府の暗部を。
それは真に政府首脳の心胆を寒からしめるに十分なものだった。
不法検束については、自らの体験談を話した。
不法拘留では、知人の例を、そしてその知人が新聞で告発した獄死した乞食の例を挙げた。
拷問については、その方法まで説明した。具体例には事欠かなかった。
だが、この質疑の内容は広く外部に伝えられることはなかった。
ヤマセンは自ら記事を書いて「無産者新聞」に送ったが、「無産者新聞」は発禁にされた。
その他の新聞はすべて報道を“自粛”した。
ヤマセンはこの追及を打ち切るにあたり、われわれは無産階級の政治的自由を獲得するために
「犠牲と、血と、涙と、生命までを尽くしている」と言ったが、この追及自体が命がけのものだった。
そのこと、そして政府がいかにヤマセンに脅威を感じたかは、わずか1ヵ月後には明らかになる。
ヤマセンは消された。犯人は右翼団体の一員だったが、彼と、捜査にあたった特捜課長とが親しい間柄だったことはのちに判明。
また、犯人は戦後、ある「えらい人」に頼まれたともらしている。
まるで小説の中のオハナシのようだが、ヤマセンの政府追及のすざまじさを読んで知っているtaroは、
これが事実であることをまったく疑っていない。
引用山宣の第三回目の発言は、二月八日予算委員会第二分科会で警察費の用途に関連して発言の機会を作り、
同志たちに加えられた不法検束、不法拘留、拷問の事実をあげ、
政府の弾圧政策を徹底的に糾弾したものである。
そしてこれこそが山宣が議会で命をかけてやった歴史的な暴露演説である。
佐々木敏二 「山本宣治(下)」
P.318この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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