一夕会結成 1929/05/19
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用〈河本につづけ〉の声は、
省部の三十代(陸士二十期から三十期)の将校にも広まった。
張作霖爆死を満蒙解決の決め手にと考える将校は、「国策を研究する」との名目でしばしば会合を開くようになった。
ここに集ったのは石原莞爾、村上啓作、根本博、沼田多稼蔵、土橋勇逸、武藤章ら陸士二十二期から二十六、七期生で、
彼らはこの会合を「無名会」と称した。
そして無名会の有力会員に、「われわれと共に研究しよう」と半ば強圧的に働きかけたのが、
永田鉄山と東條だった。
昭和四年五月十九日、双葉会と無名会が合体して「一夕会」という組織ができた。
初会合で一夕会は三つの方針を決めた。
(一)陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める、(二)満蒙問題の解決に重点を置く、
(三)荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎の三将軍を盛りたてる ―。
宇垣系、上原系と争っている人事抗争に歯止めをかけ、荒木、真崎、林ら人望のある将軍の時代にぬり変えるというのが、
彼らの願望だった。
三人の将軍を盛りたてるのは、三人とも長州とは関係がなく、長州に好感をもっていなかったからである。
当面の政策としては、満蒙分離計画を政治的、軍事的に進めるというのが、彼らの結節点となった。
また満蒙分離計画を政治的に進めるために、外務官僚との接触を進めることも決めた。
もっとも、接触といっても、陸軍が行なう軍事的行動を容認し、あわせてその“正当性”を外国世論に納得させるために、
つまり陸軍の尻ぬぐいをさせるために、手なずけておこうという程度の意味しかなかった。
引用一九二九年五月、二葉会と木曜会は合同して一夕会が結成される。
陸士一四期から二五期まで、四〇人ほどのグループであった。
一夕会はその方針として、陸軍人事を刷新し諸政策を推進する、満蒙問題解決に重点を置く、
荒木貞夫(九期)、眞崎甚三郎(九期)、林銑十郎(八期)の三将軍をもり立てて陸軍を改革する、
という三項目を申し合わせた。
戸部良一 「日本の近代(9)」
P.268この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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