一夕会結成
1929/05/19
陸軍の中堅・若手エリートたちが、陸軍改革のためのグループを結成した。
    
1921/10/27   バーデン・バーデンの密約
1928/06/04   満州某重大事件 (張作霖爆殺)
1929/05/19   一夕会結成
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1935/07/15   真崎教育総監更迭 (後任:「統制派」渡辺錠太郎
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1936/02/26   二・二六事件
1936/03/23   陸軍、二・二六事件関係者の処分と人事異動を発表
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用〈河本につづけ〉の声は、 省部の三十代(陸士二十期から三十期)の将校にも広まった。 張作霖爆死を満蒙解決の決め手にと考える将校は、「国策を研究する」との名目でしばしば会合を開くようになった。 ここに集ったのは石原莞爾、村上啓作、根本博、沼田多稼蔵、土橋勇逸、武藤章ら陸士二十二期から二十六、七期生で、 彼らはこの会合を「無名会」と称した。 そして無名会の有力会員に、「われわれと共に研究しよう」と半ば強圧的に働きかけたのが、 永田鉄山東條だった。
昭和四年五月十九日、双葉会と無名会が合体して「一夕会」という組織ができた。
初会合で一夕会は三つの方針を決めた。 (一)陸軍の人事を刷新し諸政策を強力に進める、(二)満蒙問題の解決に重点を置く、 (三)荒木貞夫真崎甚三郎林銑十郎の三将軍を盛りたてる―。 宇垣系、上原系と争っている人事抗争に歯止めをかけ、荒木真崎ら人望のある将軍の時代にぬり変えるというのが、 彼らの願望だった。 三人の将軍を盛りたてるのは、三人とも長州とは関係がなく、長州に好感をもっていなかったからである。
当面の政策としては、満蒙分離計画を政治的、軍事的に進めるというのが、彼らの結節点となった。 また満蒙分離計画を政治的に進めるために、外務官僚との接触を進めることも決めた。 もっとも、接触といっても、陸軍が行なう軍事的行動を容認し、あわせてその“正当性”を外国世論に納得させるために、 つまり陸軍の尻ぬぐいをさせるために、手なずけておこうという程度の意味しかなかった。
引用一九二九年五月、二葉会と木曜会は合同して一夕会が結成される。 陸士一四期から二五期まで、四〇人ほどのグループであった。 一夕会はその方針として、陸軍人事を刷新し諸政策を推進する、満蒙問題解決に重点を置く、 荒木貞夫(九期)、眞崎甚三郎(九期)、林銑十郎(八期)の三将軍をもり立てて陸軍を改革する、 という三項目を申し合わせた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。