満州某重大事件責任者処分発表
1929/07/01
厳しく処罰と天皇に約束していた田中首相。 陸軍の圧力で激甘の処分を発表した。
    
1928/04/07   北伐再開
1928/05/30   張作霖、北京総退却を命令
1928/06/04   満州某重大事件 (張作霖爆殺)
1929/01/25   中野正剛、満州某重大事件で田中首相を追及
1929/07/01   満州某重大事件責任者処分発表
1929/07/02   田中(義)内閣総辞職
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク 昭和天皇は温厚な人だ。だから、めったに怒らない。温厚で、めったに怒らない昭和天皇が、 しかし、このときにはめちゃめちゃ怒った。田中首相満州某重大事件の責任者の処分について報告したときだ。 結果からみれば、怒った昭和天皇が大正解で、満州事変以後、陸軍が怪物に変貌していく、 これがそのきっかけとなる出来事だった。 人の一人や二人勝手に殺したって、大して叱られないんだな、好き勝手やっていいんだな、 ということをこのときに陸軍の人たちは学習した。 二年後にはもう満州事変だ。 昭和天皇の政治的なセンスのよさがきらりと光るエピソードは他にもいろいろあるが、これもその一つだ。
引用天皇が声を荒げて叱るのはめずらしいことであった。 かつて即位後間もないころ、田中義一に憤りをぶつけたことがあった。 一九二八(昭和三)年の張作霖爆殺の件に際し、責任者を厳正に処罰すると約束した首相が、 陸軍組織の抵抗や閣議での反対によりそれを果たせなくなった。 天皇は首相が前言をひるがえしたことを責め、「それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうか」と激語した。 田中首相は辞任し、ほどなく心臓発作により急死した。
張爆殺を行った陸軍軍人を処罰しなかったことが軍規の荒廃を招いた。 憂国の至情から出た力の行使であれば、たとえ現場の軍隊の独断であっても、また政府や軍中枢の指示に反する下剋上であっても許される、 という気分をその後の軍人たちにもたらした。 それを思えば、若き天皇の怒りは的外れではなかった。 たが天皇はこのことを「若気の至り」と反省した。 日本は立憲君主国である。 天皇が意思決定する専制君主制ではない。 決定は臣下が明治体制下の手順にのっとって行う。 自らの意思と異なる決定を政府・軍部が下すときも、天皇は質問といったかたちで婉曲に翻意を促すなどの影響力の行使にとどめるべきである。 それが立憲君主制の意味である。そう若き天皇は理解した。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。