犬養毅、政友会総裁E就任
1929/10/12
人材難の政友会、引退しそびれた老人に総裁就任を要請。
    
1922/11/08   革新倶楽部結成 (犬養毅尾崎行雄島田三郎ら)
1924/01/07   清浦内閣成立 (首相:清浦奎吾
1924/01/10   護憲運動A開始
1924/05/10   総選挙[15] (憲政151、政友105、革新30、政友本党109、他69)
1924/06/07   清浦内閣総辞職
1924/06/09   加藤高明、高橋・犬養両党首を訪問、3派連立を協議
1924/06/11   加藤(高)内閣(護憲三派内閣)成立 (首相:加藤高明
1925/05/05   普通選挙法公布 (男子普通選挙)
1925/05/14   革新倶楽部右派(犬養毅ら)、政友会に合流
1925/05/28   犬養毅(逓相)、政界引退を発表 (05/30 逓相辞任)
1929/07/02   田中(義)内閣総辞職
1929/09/29   田中義一
1929/10/12   犬養毅、政友会総裁E就任
1931/12/13   犬養内閣成立 (首相:犬養毅
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用七月二日田中内閣が総辞職したとき、小川鉄相らは床次内閣を期待して西園寺にもそれを依頼した。 しかし、西園寺浜口を推薦した。
九月十八日床次は新党倶楽部を解散し、二十名の同志と共に政友会に復帰した。 九月二十一日、床次田中を訪問すると、田中床次に総裁を譲りたいといって床次を喜ばせた。 しかし、その八日後の二十九日、田中は急死してしまった。
床次は当然自分にお鉢が回ってくるものと考えていたが、百五十名の代議士を擁する鈴木喜三郎派が これに対抗してまたもや内戦状態となった。
そこで隠居の形になっていた犬養毅をかつぎ出して暫定総裁にしようというので、小泉三申、岡崎邦輔、古島一雄(犬養の参謀長)、 内田信也らが動き始めた。
天皇の怒りをかった田中が総裁では、次の内閣は回って来ない、というので、犬養かつぎ出しは少し前から匂っていたのだが、 田中の急逝で、内田は犬養の代理として急遽京都の清風荘へ赴いた。
西園寺も、田中では政友会に首班は来ないと考えていたが、犬養の名前を聞くと、
犬養とは何事ですか? 犬養は常に元老制廃止を唱えていた男です。 今更こちの意見を訊くのはおかしいではおへんか」
と厳しい表情を示した。内田は、
犬養は、元老の西園寺公ではなく、元政友会総裁の公爵に御意見を承って来い、という意味で申したのです」
ととぼけて逃げた。
結局、西園寺の了解をとりつけたので、昭和四年十月犬養が第六代政友会総裁となった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。