横浜正金銀行、ニューヨークで1億円のクレジット契約に調印 1929/11/19
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用官吏減俸問題で世論がわいているさなかの一〇月一七日、
財務官津島寿一は、井上蔵相・土方日銀総裁との協議を終えて、ひそかにニューヨークへむかった。
西海岸バンクーバーにつき、ニューヨーク行きの汽車のなかで、津島は、“ウォール街で株価大暴落”の第一報をうけた。
これが、そののち全世界を巻きこむ大恐慌にまで発展するとは、誰しも夢にも思っていなかった。
ニューヨーク着は一一月一日。その日、米財界の首脳部は、J=P=モルガン商会に集まって対策を鳩首協議中であった。
同四日の月曜日から、津島は、モルガン商会のラモントをはじめとする銀行家とクレジット設定の交渉にはいった。
その間の経緯は、津島の随想集『芳塘随想』第九集に簡単だが記されている。
それによると、モルガンの首脳たちは、日本政府はなぜ新平価で解禁しないのか、
日本経済の実力では旧平価は無理であると語ったという。
クレジットの設定は、外国金融界が必要に応じて金を貸そうと約束するところに意義があるのであって、
それには精神的支援を必要とする。
米財界人が旧平価解禁に不安感を示したことはそれだけ交渉をむずかしくさせた。
しかも、交渉中の一一月上旬、津島は、日本政府から、一一月中旬に金解禁の大蔵省令を公布するとの電報をうけとった。
東京出発前、彼は、井上蔵相から、翌三〇年(昭和五)一月に省令の公布をおこない、
同時に金解禁実施にふみきると聞かされていたのである。
突然の方針変更に、津島財務官は驚いた。
交渉を急がなければならない。彼は、米財界人にたいして、
浜口内閣は官吏の減俸までおこなって財政緊縮を推進する覚悟でいる、
浜口首相と井上蔵相を信頼してほしいと訴え、ついに一一月中旬に、英米両国銀行団との間にクレジット設定に成功した。
中村政則 「昭和の歴史(2)」
P.245この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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