田中(義)内閣総辞職
1929/07/02
満州某重大事件の激甘処分で、天皇の逆鱗に触れた田中首相、失意の総辞職。
    
1927/03/14   片岡蔵相失言 (→金融恐慌)
1927/04/12   蒋介石、上海クーデター (国共分離)
1927/04/17   若槻内閣@総辞職
1927/04/18   南京国民政府成立
1927/04/20   田中(義)内閣成立 (首相:田中義一
1927/04/22   支払猶予令 (3週間のモラトリアム/蔵相:高橋是清
1927/05/28   山東出兵@
1927/06/01   民政党結成 (総裁:浜口雄幸
1927/06/27   東方会議開催 (対中政策決定)
1928/04/19   山東出兵A
1928/05/03   済南事件
1928/05/08   山東出兵B
1928/06/04   満州某重大事件 (張作霖爆殺)
1928/06/29   治安維持法改正@
1928/08/27   パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)調印
1929/07/01   満州某重大事件責任者処分発表
1929/07/02   田中(義)内閣総辞職
1929/07/02   浜口内閣成立 (首相:浜口雄幸
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用六月二十七日、田中は参内して、
「張作霖事件につき、陸軍、関東庁、満鉄においていろいろ調査致しましたが、 日本の陸軍には幸いにして犯人はないということが判明致しました。 しかし、とに角、事件の起こったことにつき、警備責任者の手落ちについては(行政)処分に致します」
と奏上した。
天皇は表情を変えて、
田中が先に上奏した(厳罰主義の)言葉と異るではないか。責任は明確にとるべきである」
と述べた。
翌二十八日午前十一時、陸相が参内し、
「関東軍司令官、村岡長太郎を依願予備役、河本大佐は停職、事件当時の参謀総長斎藤恒中将は譴責と致します」
と奏上すると、天皇は大声で叱咤して退席した。天皇鈴木(貫太郎)侍従長に、
「総理のいうことは全然筋道が立たぬ、二度と聞きたくない」
と興奮した様子で語った。
鈴木侍従長田中に午前二時参内するよう要請し、田中が現れると、鈴木天皇の怒りを伝えた。 田中が恐懼して直ちに参上して陛下に弁明したいというと、鈴木は、
陛下の御様子では、拝顔は無理であると思います」
と答えた。
がっくりとなった田中は、官邸に戻ると、閣議の為集まっていた閣僚たちに報告して「オラは天皇の御信任を失った」と言って辞意を表明した。 田中が駿河台の西園寺を訪れると、西園寺は「いよいよ辞めるのか」と感慨深げに言った。
七月二日田中内閣は総辞職した。 気落ちした田中義一は、この年九月二十九日狭心症で急死した。 麹町番町の妾の家で死んだと伝えられる。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「田中(義)内閣」は「田中義一内閣」と同じ意味です。