マクドナルド挙国一致内閣成立
1931/08/25
嵐の世界恐慌克服のため、イギリスの保守党と自由党が、マクドナルド首相と一致結束。
    
1929/10/24   米・ウォール街、株価大暴落 (→世界恐慌)
1931/06/20   フーバー・モラトリアム
1931/08/25   マクドナルド挙国一致内閣成立 (英)
1931/12/11   イギリス議会、ウエストミンスター条例可決 (英帝国会議宣言を法制化)
1932/01/04   ガンジー逮捕 (ハンスト開始)
1932/06/16   ローザンヌ会議開催 (〜07/09/ドイツ賠償金支払い問題)
1932/07/21   オタワ連邦会議 (〜08/20)
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taro's トーク ああああああ
引用イギリスの経済界が危機に瀕していることがわかると、 これまでイギリスの経済力を信用してロンドンに集まっていた巨大な外国人の資本が大挙してひきあげられた。 一九三一年の七月後半から八月初めにかけて、彼らはきそってロンドンの預金を引き出したので、 イングランド銀行はフランスやアメリカの中央銀行などから五千万ポンドの借款を得て急場をしのいだものの、 金の流出はなおやまなかった。 巨額の赤字を補い、金の流出も補うために、イングランド銀行はさらに八千万ポンドの借款をパリとニューヨークから得ようと努力したが、 ニューヨーク連邦準備銀行はその条件として、政府が失業手当の減額など 【中略】 を実行して予算の均衡をとることを求められた。
マクドナルドはこの要求を受けいれる覚悟をきめたが、閣内に反対論者がかなりいるので、 八月二十三日(日曜日)に辞職し、翌日保守党総裁ボールドウィン、自由党総裁サミュエルとともに挙国一致内閣をつくって 難局を乗り切ることとした。 一般にマクドナルドはこのさい引退して、ボールドウィンが新内閣をつくるものと考えられていたが、 国王の要請によって前内閣の事情に通じている者が残留することとなったのである。 労働党の幹部たちが、こうしたマクドナルドの行為を「裏切りだ」と憤慨したのも当然で、 非難が雨あられとマクドナルドの上にあびせかけられた。 アメリカとフランスの資本、それにイギリスの銀行家が労働党内閣を倒したのだ、という彼らの非難は相当に根拠のあることである。
引用フランスの場合とことなり、三〇年代なかばのイギリスの国内政治は、比較的安定していた。
当時のイギリス政府は、保守党、挙国派自由党、挙国派労働党からなるいわゆる挙国政府である。 一九三一年夏に労働党政府退陣のあとをうけて組織されたこの政府は、同年十月の総選挙で大勝をおさめ、 それ以来、議会で圧倒的な優勢をほこっていた。 一九三五年におこなわれた総選挙では、なるほど、野党の労働党がかなり力をもりかえす。 しかしそれでも、議席の圧倒的多数が挙国政府の支持者によってしめられているという状況にかわりはなかった。
挙国政府は、はじめその首班を、挙国派労働党をひきいるマクドナルドにあおいだ。 だが、実際にこの政府のなかで発言権をもっていたのは、首相のマクドナルドよりも、 むしろ副首相格のボールドウィンや蔵相のチェンバレンなど保守党の閣僚であった。 一九三五年六月にマクドナルドが病気でしりぞき、ボールドウィンが首相に就任するとともに、挙国政府の保守党色はいっそうつよまった。
挙国政府の誕生した一九三一年当時は、イギリスが恐慌のまっただなかにおかれていた時期である。 失業者は、この年二七〇万にも達した。 しかし、このような状況のもとで登場した挙国政府は、恐慌克服のためになかなか機敏な動きをしめした。 金本位制からの離脱(一九三一年)、輸入関税法の制定(三二年)、オタワ会議における自治領諸国との経済的提携の強化(三二年)などは、 この政府の施策の代表的なものである。 そのほか、農業振興のための市場調整や奨励金の交付、鉄鋼、石炭、造船などの伝統的産業の合理化促進、 低金利政策・・・・・・など、挙国政府が恐慌克服のためにうった手は、多岐にわたった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。