十月事件
1931/10/17
あれから7ヵ月。 今度も未然に発覚し、やっぱりほとんど「おとがめなし」だった。
    
1929/10/24   米・ウォール街、株価大暴落 (→世界恐慌)
1930/04/22   ロンドン海軍軍縮条約調印
1930/04/25   統帥権干犯問題 (犬養毅鳩山一郎が追及)
1930/11/14   浜口首相狙撃事件 (東京駅/犯人:佐郷屋留雄)
1931/03/17   三月事件 (陸軍によるクーデター未遂)
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1931/09/21   朝鮮軍、満州へ越境出動 (司令官:林銑十郎/統帥権侵犯)
1931/09/24   政府、不拡大方針を声明
1931/10/17   十月事件 (桜会によるクーデター未遂)
1931/10/18   陸軍、白川義則大将の満州派遣を決定 (暴走する関東軍説得のため)
1931/11/18   日本政府、満州への増派を閣議決定
1932/01/28   上海事変@勃発
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1935/07/11   「粛軍に関する意見書」配布
〜 関東軍による満州事変と連動 〜
⇒ 未遂でも、政府への無言の圧力となり満州事変の拡大を容易にした
taro's トーク ああああああ
引用十月十七日、今度は陸軍のクーデター未発事件、「十月事件」が発覚した。
主謀者はまたしても桜会のメンバーで、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎、北京駐在武官・長勇少佐らである。
まず桜会の将校百余人を動員し、これに歩兵十個中隊、機関銃一個中隊、爆撃機十三機をつけ、 首相官邸、陸軍省、参謀本部を襲撃する。 剣道の達人である長少佐が若槻首相幣原外相ら満州事変拡大に反対する閣僚を軍刀で斬殺する。 このあと東郷元帥閑院宮の応援を求めて、新国策推進の為の強力なる内閣を樹立する。 その主な予定メンバーは次の通りである。
首相兼陸相=荒木貞夫中将、内相=橋本欣五郎、外相=建川美次少将、蔵相=大川周明、警視総監=長勇少佐、 海相=小林省三郎少将(霞ヶ浦航空隊司令)。
中佐や少佐が国政の枢機を握ろうというところに、彼らの明治維新の志士を模倣した“昭和維新”の意気込みがうかがえる。
この計画は簡単に暴露し、荒木中将も反対で、説得する側に回り、橋本、長らは逮捕され、 やがて満州勤務などにとばされるのである。
十月事件は天皇の耳にも入り、金谷参謀総長はまたしても叱られた。
引用十月事件なるものは、再び軍部政権の樹立をねらい、例によって、参謀本部の橋本欣五郎、ロシア班長建川美次、 長勇少佐たちが企てたものであった。 外部から大川周明とその門下、北一輝西田税の一派が加わっていた。 陸軍の将校二十名、近衛の十中隊、機関銃中隊、海軍将校、航空機十数機を動員し、六年(一九三一)十月二十一日を期して、 首相官邸の閣議の席を襲い、若槻首相以下閣僚を斬殺し、警視庁その他を占拠する計画であった。
このテロを決行したあと、彼らは宮中に東郷平八郎元帥を参内させると同時に、 閑院宮殿下西園寺公に急使を派し、荒木貞夫陸軍大将に大命を降下させ、荒木首班の軍部政権をつくるのが、究極の目的であった。
さいわいに、この情報が事前に、重臣筋に洩れたので、ことなきを得た。 しかし、陸軍の幹部たちは、この陰謀の首謀者たちを、料亭に軟禁しただけで、処罰しようとはしなかった。 このことが、いっそう、軍部や右翼の間に、
―下剋上。
―テロによる力ずくの政権奪取。
という気運をみなぎらせた。
引用九月満州事変が勃発した際、 彼らは関東軍の行動を掣肘する政府およびそれにおさえられていると思われた軍中央部に対し、 さまざまなかたちでおどしをかけた。 関東軍独立説を流して不拡大方針を牽制したりしたが、 また事変遂行の妨害者である第二次若槻内閣を倒して 事変遂行のための軍政府を樹立しようという第二のクーデター計画を練りはじめた。
彼らの計画では、一〇月二一日を決行の日とし、将校約一二〇名、歩兵一〇個中隊、機関銃隊二個中隊のほか、 大川周明西田税北一輝ら民間人、海軍の抜刀隊一〇名、海軍爆撃機一三機、陸軍機三〜四機が参加するはずであった。 この人員をもって、閣議中を襲い首相以下を斬殺し、警視庁や報道・通信機関を占領、 また陸軍省、参謀本部を包囲して軍幹部を同調させ、不良人物や将校を制裁するつもりであった。 こうした上で、東郷平八郎元帥が参内し、 荒木貞夫中将に大命降下を奏請、荒木が首相兼陸相、建川が外相、橋本が内相、大川が蔵相に親任され、 それに橋本の第一の配下長勇少佐が警視総監に任命される、これが彼らの計画の概要であった。
【中略】
一〇月一二日に、橋本を中心とした会合で計画を聞いた田中清大尉が中止を勧告するよう上級者に伝えたことや、 橋本自身が杉山元次官に同調を要求したことなどから計画が上層部の知るところとなり、 一六日、建川参謀本部第一部長が橋本をよんで中止を命じた。 一旦中止に同意した橋本はその後も荒木貞夫教育総監部本部長に決起を要請したりして、 荒木からも中止を勧告されている。 この夜金龍亭で最後の打合せが行なわれているという情報で、軍中央部は荒木を説得に行かせるが、不得要領に終り、 結局南陸相は全員検束を命じた。 この事件も公表されず、その処罰は軽微なものに終った。
このいわゆる一〇月事件は、実際に実行する気があったのか、 単なるおどしであったのかやや疑問が残る。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。