上海事変@勃発 1932/01/28
taro's トーク
ああああああ
引用上海における抗日運動と日本人居留民との対立抗争がたかまる中で、一月二十九日、上海市北部の閘北において、
治安維持に出動した海軍の陸戦隊と中国軍との間に、激烈な市街戦が開始されたのだ。
第一次上海事変の勃発だった。
柳田邦男 「マリコ」
P.35この本を入手
引用国際都市上海における武力衝突は、各国から抗議、妨害が出ない前に
迅速に収拾する必要があると判断した荒木陸相は、真崎参謀次長と協議し、二月に入って間もなく、
参謀本部作戦課長の今村均(一九期、陸大二七期、後大将)を急遽上海に派遣し、
後任に陸大教官であった小畑敏四郎を起用した。
【中略】 緻密、果断な小畑の敏速な処置を期待したに他ならない。
小畑は上海の複雑な国際関係や、上海附近の地形を考慮して、参謀次長に進言して、
二個師団の増派が必要であると力説した。
結局その進言は容れられ、第十一師団(善通寺)と第十四師団(宇都宮)の派遣が決定した。
しかし、この大部隊の上陸地点が問題である。
上海は揚子江の河口附近に発達した街で、黄浦江の西岸に広がっている。
しかも附近には大小の小運河(クリーク)が掘られ、大部隊の行進を阻んでいる。
その上、蒋介石軍約七万は戦意きわめて旺盛で、北方には呉淞鎮、中央に廟行鎮と大場鎮、
西方に羅店鎮と堅固な防塞を築いて徹底抗戦の構えを見せている。
とうてい短時日に撃破できそうにない。
そこで小畑が採ったのが、支那軍の背後を衝く作戦であった。
古来幾多の大小の戦場において衝背作戦が行われたが、その時機、場所を選ばなければ失敗する。
殊に揚子江下流附近のような低湿地帯では、よほどの場所を選ばなければ大部隊を上陸させても、その威力を発揮しない。
小畑が第十一、第十四師団の上陸地点に選んだのは、七了口という名もない僻村であった。
ここは昭和二年、小畑が初めの作戦課長の時、課員の鈴木率道らをして揚子江沿岸の兵要地誌を点検させた際、
絶好の上陸地点と報告してきた場所であった。
七了口の上陸作戦は、海軍の護衛が絶対必要である。
小畑は軍令部参謀をも兼務し、渋る海軍を説得して、短時日のうちに計画を練り上げてしまった。
二月二十日、廟行鎮の正面から総攻撃を開始したが、支那軍の抵抗は頑強で日本軍はしばしば苦戦に陥った。
三月一日、七了口に上陸した増援部隊は、大した抵抗らしい抵抗をうけずに西南方面に向って急進撃を開始した。
腹背から攻撃を受けた支那軍は狼狽した。
西方は太湖を中心とした湖沼地帯で、日本軍に退路を絶たれたら全滅である。
頑強だった支那軍も急に戦意を失い、雪崩をうって西北方に退却した。
こうして三月三日、派遣軍総司令官白川義則大将(一期、陸大一二期)は全軍に停戦を命じ、
国際都市上海は、わずか三十四日ぶりに戦火は止んだ。日本軍の鮮やかな勝利である。
須山幸雄 「作戦の鬼 小畑敏四郎」
P.263この本を入手
引用一九三二年一月十八日、上海で五人の日本人僧侶が中国人無頼漢に襲われ、
一人が死亡、三人が重傷を負うという事件が起こった。
のちに明らかにされたところによると、この事件は、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐が、
満州から列国の関心をそらすために国際都市上海で事を起こすよう、公使館付き武官の田中隆吉少佐に依頼し、
田中が無頼の中国人を雇って襲撃させたものである。
日本側は上海市政府に対して陳謝・犯人の処罰・賠償とともに抗日団体の即時解散を要求し、
武力を背景に最後通牒をつきつけた。
上海市政府は一月二十八日これを受諾したが、それにもかかわらず日本陸戦隊は
その夜半に閘北一帯の警備区域を中国側に無断で拡大し、中国軍と衝突した。
これが上海事変(中国では一・二八事変と呼ぶ)の発端である。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.141この本を入手
引用日本側はこの事件に対して、暴行に直接関連した、陳謝・処罰・賠償などのほかに、
上海における抗日団体の解散を要求し、軍事力を行使してでも実現させようとする姿勢を明らかにしたため、
情勢は極度に緊迫してきた。
しかし孫科内閣はこれを処理し切れずに一月二五日に辞職、
二八日には汪兆銘が行政院長となり、蒋介石も軍事責任者に復活し、
広東派政権は一か月足らずで崩壊してしまった。
そしてこのとき、二八日午後六時を期限とした最後通牒をつきつけられていた上海市政府も、
午後三時には屈服して日本側の要求すべてを受諾していた。
にもかかわらず、この夜から、日中両軍の戦端が開かれるのは、
上海在留の日本人たちが、この際中国側に一撃を加えるよう海軍陸戦隊(上海に常駐していた兵力は海軍のみ)にけしかけ、
陸戦隊側がそれに呼応して、日本軍の警備地域を中国側に無断で拡大するという挑発をおこなったからであった。
この時期には、排日事件に対する在留日本人の暴力的反応が目立っており、
例えば青島では、一月一二日、約二〇〇人の日本人が天皇に対する不敬記事を掲載したとして、
新聞社を焼打ちし、焼失させるという事件がおこっているが、
上海でも日本人僧侶が襲撃された翌日深夜には、約三〇名の日本人青年たちが、
襲撃現地のタオル工場をおそって放火するという挙に出ている。
当時の、日本人の居留民社会は、全体としてこうした中国側への暴力を容認していたと考えられ、
上海の場合にはさらに強く、
一月二〇日の居留民大会では、日本政府は軍隊を派遣して抗日運動を絶滅せよと要求する決議がなされているのである。
そして、中国側が日本の要求全部をうけいれたとの情報がもたらされても、
この機をのがさず出撃することを求めて、多くの日本人が陸戦隊本部に集まり、
戦闘が開始されてのちは、居留民の間で自警団が組織され、
銃や日本刀・棍棒などで武装して検問を実施し、便衣隊狩りをおこなったという。
便衣隊とは、平服姿で民衆の中にまぎれ込んでいる軍隊といった意味で、
この時期から多用されるようになる言葉であるが、
陸戦隊側も便衣隊を銃殺する旨の布告を出しており、
反抗的な中国人が便衣隊の名目で自警団に虐殺された例も多かったことと思われる。
重光葵公使は、二月二日付の報告で、
これら自警団の行動は、関東大震災の際に朝鮮人を虐殺したあの自警団と同様であり、
「支那人にして便衣隊の嫌疑を以て処刑せられたるもの既に数百に達せるものの如く」と述べている。
そしてこの便衣隊狩りは、のちの南京大虐殺のなかでも、虐殺の一つの類型をなすに至っている。
古屋哲夫 「日中戦争」
P.70この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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