五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1932/05/15
海軍青年将校たちを中心としたクーデター計画が実行され、またも首相が凶弾に倒れた。
    
1931/03/17   三月事件 (陸軍によるクーデター未遂)
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1931/10/17   十月事件 (桜会によるクーデター未遂)
1932/01/28   上海事変@勃発
1932/01/31   井上日召・古賀清志海軍中尉ら、要人殺害計画を決定
1932/02/09   血盟団事件@ (井上準之助暗殺)
1932/03/05   血盟団事件A (団琢磨暗殺)
1932/03/11   井上日召自首 (血盟団事件)
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1932/05/15   西田税暗殺未遂事件
1932/05/16   犬養内閣総辞職
1932/05/20   鈴木喜三郎、政友会総裁F就任
1932/05/26   斉藤内閣成立 (首相:斉藤実
1933/07/11   神兵隊事件
1933/09/11   五・一五事件陸軍側判決 (全員禁固4年)
1933/11/09   五・一五事件海軍側判決 (最高禁固15年)
1934/02/04   五・一五事件民間側判決 (最高無期懲役)
1936/02/26   二・二六事件
〜 犬養首相暗殺 → 政党政治の終焉 〜
でも・・・犯人たちに国民の共感 (100万を超える減刑嘆願書)
taro's トーク ああああああ
引用この日午後五時二十七日、一台の自動車が永田町の首相官邸にすべり込んで来た。 車から降りたのは、海軍の三上卓中尉、黒岩勇少尉、陸軍士官候補生三人である。
彼らは警護の村田巡査部長らを拳銃で脅すと日本間にいた犬養総理の前に現れた。 抵抗する田中巡査の腹部に弾丸を撃ちこむと、三上が犬養に拳銃を向けた。犬養は、
「あちらで話をしよう」
と将校たちを食堂の隣りの十五畳の日本間に案内した。
「話を聞こう」
と煙草を手にした犬養に、三上は、
「かつて張学良の倉庫の中から、学良が日本に送った大金の領収書が出て来たが、 その中には犬養総理のものもまじっていたという。事実はどうか」
と問うた。
「ああ、そのことか、それならば話せばわかる」
犬養がそう言ったとき、裏門から入っていた山岸宏中尉が、
「問答無用、撃て!」
と叫んだ。
黒岩が発砲し、犬養は左頬と右こめかみに二弾を受けて倒れた。 犬養は出血の為午後十一時二十六分死去した。
三上ら青年将校十八名は、その日の内に憲兵隊に自首した。
三上や山岸は井上日召の血盟団の同調者であるが、その大官暗殺の名目は“昭和維新”であり、 君側の奸を屠り、国民の敵たる腐敗した既成政党と財閥を倒し、新しい日本を創ることであった。
引用牧野内府官邸では、古賀海軍中尉が車から降り、 手榴弾を紐ぐるみにぎって門を越し中に投げこんだ。 轟然と爆発したが、それまで門の右側に立って警戒していた巡査が驚いて古賀中尉のほうにかけよってきた。 古賀がピストルをさしむけると、巡査はおどろいて背中をむけ、門内にかけこんでゆく恰好をした。 その間一髪に古賀はピストルを発射した。巡査は重症を負うている。
池松武志は古賀につづいて手榴弾を門内に投げたが、これは不発だった。 その間、西川武敏は運転手の眼の前に拳銃をつきつけて車が走り去らないように脅迫していた。 これらの襲撃に要した時間は四、五分間であった。 それから一同は、警視庁の巡査隊と対決するためにそっちに向った。
引用狙い撃ちにされた当の犬養の家に限っては、事件ののち、 一種不思議な―そう、安堵感と言ってしまっては些か語弊があるが、 それにも通じる静けさが訪れたのであった。
無論、事件は一家全体に取って、めくるめくドラマであったし、 めいめいの受け取り方には相違があろうとも、家族ひとりひとりのその後の人生に、 永く尾を曳く強烈な個人的体験であった。とくにも、唯一の現場目撃者でありながら 「むざむざと(舅木堂を)撃たせてしまった」嫁である母の苦悩は深かった。
しかし、その彼女すらも含めて、一家全員が、安らぎとも解放感ともつかぬ気持を味わうようになったことはたしかである。
来るべきもの―のがれっこないもの―は、 来て去って行った。月並な表現を借りれば、嵐のあとの静けさ。
嵐はすさまじく、むごかった。破壊力に満ち溢れていた。 しかも、もっと大きな嵐を早晩余波として送って来ることをはっきり示す嵐であった。 とは言え、とにかく、去ったのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「五・一五事件」は「5・15事件」とも表記されることがあります。