ヒトラー内閣成立 1933/01/30
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ヒトラーが独裁的な人物であったとしても、もし首相になれていなければ、彼は独裁者たりえなかった。
そして、彼を首相にしたのはドイツの民主主義なのだ。
民主制も君主制も、主権者が賢明な判断を下せなければ、その結果、
国家や世界に多大な不幸をもたらすという点では、実はまったく同じなのだ。
なーんてね。えらそうなこと言っちゃった。
だけど、そう考えると、民主主義というのは、「民」にとってひどく疲れる制度だと思う。
「民」がこの、賢明な判断を下し続けるという重労働に耐えられないと、何かのきっかけで簡単に破綻しちゃう制度なのだとも思う。
考えるだけで疲れるね。
ハイル・ヒトラー! って叫んでれば、後はヒトラーまかせでいい制度を選択した当時のドイツ人の気持ちが少しわかるような気がする。
やっぱtaroってやばい?
引用七月末の選挙では、ナチ党は予想通り第一党になり、反共和国勢力は過半数を超えたが、政府を支持する党派は国会の五パーセントもなかった。
パーペン、大統領ともヒトラーを首相にする気はなく、一方、ヒトラーは首相職を要求して譲らなかったから、
ナチ党は政府との対決路線に戻った。
パーペンは開会したばかりの国会をすぐに解散するという暴挙に出て、三二年は全ドイツが選挙づけの年になった。
選挙の結果、政府に何の展望ももたらさなかったが、ナチ党ははじめて二〇〇万票を失って後退した。
すでにそれ以前から、ナチ党内部でヒトラーの「すべてか無か」の方針には危惧感が生まれていた。
選挙後のナチ党内部文書も、支持基盤の流動性を指摘し、政権に参加して積極的な成果を示さなければ、
また二〇年代の中核党員だけの運動に逆戻りする、と警告した。
一方、パーペンには、もはや軍を頼りにした大統領独裁の道しか残されていなかった。
軍の黒幕で国防相のシュライヒャーが協力を拒否すると、大統領もお気に入りのパーペンを辞任させるしかなく、
ついに黒幕がみずから表舞台に出てきた。
シュライヒャー新首相は、ナチ党内の動揺を見越してナチ党議員団長シュトラッサーを抱きこみ、
社会民主党系の労働組合も引きいれて、大衆的軍事独裁路線を構想した。
シュトラッサーは乗り気だったが、ヒトラーは頑として譲らず、シュトラッサーは全役職を辞任して去った。
この事件で、ナチ党はやはりヒトラーの党であることが証明された。
こうなっては、シュライヒャーもなすすべがなかった。
引用一九三三年一月三十日、ヒトラー内閣が成立すると、首相・大統領官邸のあるヴィルヘルム通りは、
ナチス突撃隊や鉄かぶと団のたいまつ行列が夜遅くまで続いた。
ヒトラー内閣といっても、ナチ党員は首相のヒトラーと内相のフリック、無任所相兼プロイセン内務国家委員ゲーリングの三名にすぎず、
他の閣僚ポストは副首相パーペン、経済相と農業食糧相を兼ね経済独裁者といわれたフーゲンベルクなど、
反共和国的保守派か保守的専門家が占めた。
引用一九三三年一月三十日。その日、ベルリンの町並は雪にけむっていた。
午前十一時ごろ首相官邸にはいったヒトラーは、最後の折衝にやや手間どったが、しかし正午ごろには、
ついにみずからを首班とする新政府の宣誓式にこぎつけることができた。
「わたしはつぎのことを誓います。
わたしはドイツ国民の福祉のために力をつくし、ドイツ国民の憲法と法律をまもり、わたしは課せられた義務を誠実に履行し・・・・・・」
ワイマル時代の先例にならって、まず新首相のヒトラーがヒンデンブルク大統領のまえにすすみで、
右手をあげてこのように宣誓した。
つづいて、他の閣僚たちもそれにならった。
当時すでに八十五歳の高齢に達していたヒンデンブルク大統領は、じっと閣僚たちの宣誓に耳をかたむけていたが、
最後にただひとことこういった。「では諸君、神とともにすすまれんことを!」
これで宣誓式はおわった。
ここに、ヒトラーを首班とするドイツのあたらしい政府が正式に誕生したのである。
その夜のベルリンは、ブランデンブルク門付近を中心に夜っぴて喧騒につつまれる。
制服を着たナチスの突撃隊員、親衛隊員、ヒトラー青年団、それに老若男女をまじえた一般市民
―これらのひとたちの織りなす松明行進の列が、
つぎからつぎへとひきもきらずにブランデンブルク門をくぐりぬけ、首相官邸のあるヴィルヘルム通りにむかって行進した。
歌い、叫び、鉤十字の旗をうちふりながら。
午後七時ごろにはじまったこの光と興奮の列は、夜半をすぎてもなおたえなかった。あかりのついた首相官邸の窓ぎわでは、ヒンデンブルク大統領も、ステッキを手にじっと外の光景をみいっていた。
が、その夜官邸のまえを通りすぎる群衆の関心は、この老大統領のほうにはない。
そこからすこしはなれた別の窓では、ヒトラーが彼独特の大きな身ぶりで行進の列にむかって挨拶をおくっていた。
いうまでもなく、彼こそは、この夜のベルリン子たちの陶酔のたねであった。
ヒトラー政権誕生の報によって興奮につつまれたのは、なにも首都のベルリンばかりではなかった。
ベルリンの模様は、ラジオでドイツ全土に放送された。
そして他の多くの都市でも、ベルリンにならった祝賀行進の列が、ナチスの党員や一般市民によって組まれた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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