国際連盟総会、リットン報告書を採択
1933/02/24
42対1(棄権1)。圧倒的多数でリットン報告書が採択され、松岡代表ら、抗議の退場。
    
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1931/12/10   国際連盟、満州問題調査委員会設置
1932/01/07   スチムソン・ドクトリン (米、満州事変を不承認)
1932/01/28   上海事変@勃発
1932/02/29   リットン調査団来日
1932/03/01   満州国建国宣言
1932/05/05   上海停戦協定調印
1932/08/25   内田外相、「焦土外交」の決意を表明
1932/09/15   満州国承認 (日満議定書調印)
1932/10/01   リットン調査団、日本政府に報告書を通達
1932/12/08   松岡洋右、国際連盟総会で「十字架演説」
1933/01/01   山海関事件 (01/03 日本軍、山海関占領)
1933/02/20   閣議、対日勧告案可決の場合の国際連盟脱退を決定
1933/02/23   日満軍、熱河省への進攻作戦開始
1933/02/24   国際連盟総会、リットン報告書を採択
1933/03/28   日本、国際連盟脱退
1933/05/31   塘沽停戦協定
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用十九か国委員会が日本に対して、リットン調査団の報告および勧告をつきつけることを決めたのは、二月十四日である。
「日本の満州における軍事行動は、自衛の措置とは認めがたい」とあって、 満州国の独立を承認していなかった。一般的な解決原則として、
「日支双方の利益と両立すること」
「満州内部の秩序は、満州の憲兵隊により確保し、それ以外の一切の軍隊を撤去し、 関係国間の不可侵条約締結によって期すること」などをあげ、関係条約の締結を勧告するものであった。
この報告、勧告が、総会にかけられたのは、二月二十四日の午前であった。 イースマン議長の背後は、大きくひらけたガラス窓で、そこからは白いアルプス連峰と、 碧い空とが鮮やかにとらえられた。 中国代表の顔恵慶が、無条件受諾の賛成演説を行なったのを受けて、松岡は流暢な英語による反対演説を、 一時間にわたってくりひろげた。
しかし、その票決は賛成四十二、反対一、棄権一、欠席十二で、リットン報告、勧告は可決されることになった。松岡は、
「報告、勧告は、東洋の平和を確保するとは考えられない、平和達成の様式について、 日本と他の連盟国とが別個の見解であるとの結論に達した」といって国際連盟からの脱退を宣言した。 国際連盟脱退が枢密院の議を得て、正式に決定したのが一か月あとの昭和八年、三月二十七日である。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。