ドイツ議会、全権委任法を可決 1933/03/23
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用三月二十三日午後二時五分、ベルリンのクロル・オペラ劇場に仮設された議会本会議場で、議長ゲーリングが開会を宣言した。
出席した議員は、五百三十五人であった。
共産党議員八十一人全員、社会民主党議員二十六人、諸派五人が「逮捕、逃亡、病気」などの理由で「欠席」した。
議場の外にSS隊がピケラインを張り、議場内の廊下にSA隊員がならび、議場の正面の壁は巨大な鉤十時旗でおおわれていた。
ヒトラーは、同じく褐色の党服装でその右手の波に右手で応え、とどろく拍手の中で演説をはじめた。
演説は一時間つづいたが、焦点はむろん全権賦与法案の提議であった。
正式には『人民と国家の苦悩を除去する法案』を提出するにあたって、ヒトラーは、
とくに同法案が「大統領の地位と権力」「連邦各州の存立」「教会の権利」「国会の存在」をおびやかすものではない、
と強調した。
だが、五ヵ条の法案の内容は、予算監督権をふくむ立法権、外国との条約の承認権、
憲法修正の発議権を議会から政府に移し(第一、第二、第四条)、
憲法の範囲外のものをふくむ法律の作成権を大統領から首相に移管する(第三条)ことを規定している。
有効期間は四年間かつ現内閣の存続中(第五条)と定められているが、
文字どおりの「全権」の賦与であり、大統領、国会ともにその権限の骨幹を奪われることになる。
それでも大統領、国会の存立をおびやかさないとは、奇異な白々しさを感得させる発言である。
三時間の討議中に、さすがに社会民主党は反対を議決して、午後六時十五分に本会議が再開されると、
党首D・ヴェルスは、民主主義にたいする信仰を告示する形で法案反対の態度を表明した。
「与党は、選挙によって多数を獲得し、憲法に従って統治する可能性を得た。
その可能性の存するところ、義務もまた生ずる。批判は有益であり、これを迫害しても無益である」
ヒトラーは、社会民主党首ヴェルスを指さしたまま、
ナチス党はほかならぬ社会民主党政府から迫害と批判をうけつづけた、いまさらなにをいうか、
自分を「ペンキ屋の職人」だとさげすんだのは誰か、といった趣旨を怒号したのち、一段と声をはりあげた。
「諸君はもはや不要だ・・・・・・ドイツの星は昇るが、諸君の星は沈む・・・・・・私は諸君の投票をあてにはしていない。
ドイツは自由になる、だが、それは諸君によってではない・・・・・・」
社会民主党の支持はいらぬ、というヒトラーの言葉に間違いはなかった。
次いでおこなわれた表決に、社会民主党議員九十四人は全員が反対投票した。
が、賛成票は四百四十一を数え、全権賦与法は可決された。
ナチス党議員は起立して、右手をさしのばし、足をふみ慣らして党歌『旗を掲げよ』を斉唱した。
その歌声をぬって議長ゲーリングは無期休会を宣言して、議事を終えた。
「ナチス独裁の覇業遂に完成す
―
憲法はその髄を抜きとられ・・・・・・かくてドイツ共和制は成立後満十年にして実質的に圧殺された」『東京朝日新聞』ベルリン電がそう伝えるように、ヒトラーは、憲法を廃止や停止もしない代りに、
一ヵ月前の二つの緊急令とこの全権賦与法によって、憲法を超える法的基盤を入手した。
それは、かつて皇帝カイザーも身につけなかった「全能の法力と権力」である。
その必要があったのかヒトラーに与え、開運の期待をこめて「第三帝国」を発動させたのである。
―と、後日に自問するにせよ、
六千四百余万人のドイツ国民がそれを
引用ナチスの必死の努力にもかかわらず、一九三三年三月五日におこなわれた国会選挙の投票結果は、
ヒトラーにとってかならずしも満足すべきものではなかった。
なるほど、ナチスの議席数は前回よりも大幅に増加した。
だが、同党の得票率が四三・九パーセントにとどまり、単独で国会の過半数を制するこころみは今回も失敗におわったのである。
けれどもヒトラーは、こうした選挙結果によっても、「合法的に」独裁権をにぎるという努力を放棄しなかった。
選挙のつぎに彼が意図したことは、あたらしい国会で全権委任法
―正確には「国民と国家の窮状を除去するための法律」 ―を成立させることであった。
この法律は憲法を変更するものであったから、その国会通過のためには、三分の二の同意が必要であった。
ヒトラーは、舞台裏でのおどしと甘言をまじえて、ついに最後には社会民主党をのぞくすべての政党の賛成をとりつけることに成功する。
もちろん、そこにいたるまでには、政党の側に多くの躊躇や内的葛藤があった。
とくに事態の鍵をにぎっていた中央党の内部では、元首相のブリューニングをはじめとする人たちがこの法律に反対を主張した。
だが結局、中央党の場合にも、また国家党、人民党といった自由主義政党の場合にも、つぎのような考えが勝ちをしめた。
もしも議会がこの法律を拒否すれば、ヒトラーをますます恣意的な暴力支配に走らすことになるだろう。
たとえヒトラーに強大な権限をあたえる悪法であっても、法律は、ないよりましだ。
―この「・・・・・・よりはましだ」という思考様式こそ、
実はヒトラーにつけいる隙をあたえるものだったのである。
それにしても、三月二十三日の全権委任法の国会採決は、まことに異様な雰囲気のなかでおこなわれた。
国会議事堂はすでに焼失していたので、クロル・オペラハウスが議場にあてられたが、
当日この建物の内外には、黒シャツの親衛隊員や褐色のシャツの突撃隊員がたくさんおしかけていた。
そうしたなかでみずからも褐色のシャツを着たヒトラーが、大きな鉤十字旗を背に演説をおこなった。
彼は、大統領の権限をおかすつもりはないとか、教会の地位は尊重するといったふうに、
適当に中央党などの気をひいたかと思うと、また、こんなふうにおどしもかけた。
「・・・・・・たとえ全権委任法が拒否されても、政府は前進するつもりだ。
戦争か平和かを決定するのは、議員諸君、あなたたちだ」
結局この法律は四四一対九四票で国会を通過するが、
それにさきだって社会民主党のオットー・ヴェルスがこころみた勇敢な反対演説は、
ドイツ国会の演壇からのナチスに対する最後の抵抗となった。
なお共産党は、すでに弾圧されており、議会に出席さえみとめられなかった。
こうして生まれた全権委任法は、ヒトラーに対して国会の同意なしに自由に法律を制定する権限をみとめるという、
途方もない内容のものだった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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