埼玉挺身隊事件
1933/11/13
当局が 「鈴木総裁暗殺計画」 に矮小化したのは、実は陸軍青年将校によるクーデター計画だった。
    
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1932/05/15   西田税暗殺未遂事件
1933/04/22   滝川事件 (鳩山文相、滝川教授の辞職を京都帝大総長に要求)
1933/05/31   塘沽停戦協定
1933/07/11   神兵隊事件
1933/09/11   五・一五事件陸軍側判決 (全員禁固4年)
1933/11/09   五・一五事件海軍側判決 (最高禁固15年)
1933/11/13   埼玉挺身隊事件
1934/02/04   五・一五事件民間側判決 (最高無期懲役)
1934/11/20   士官学校事件
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1936/02/26   二・二六事件
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用昭和八年十一月、埼玉県熊谷市に起ったこの「不穏事件」は、 検挙されたのがこの地方の民間人ばかりで、そのうち公判にまわされたのは、わずか七人だった。
当時拓殖大学の学生だった吉田豊隆は政党、財閥が腐敗堕落し、農村が日に日に疲弊し、 しかも失業者が巷に溢れ、外には一九三六年の国際危機が迫っていることを常から憂い、 北一輝の著書の影響などから昭和維新の実現を期し、同志の獲得につとめた結果、昭和八年四月ごろ、 熊谷市付近の青年から同志を得た。
たまたま、八年六月下旬、新聞記事で、十一月十四日、川越市で政友会関東大会が開催され、 同会総裁鈴木喜三郎以下党幹部が出席することを知ると、これを好機とし、十一月十日、熊谷市に集合して、 鈴木喜三郎政友会総裁の暗殺計画を謀議していたものである。 これが埼玉県警察部特高課の知るところとなって、前日の十一月十三日、一斉に検挙された。 以上がその公訴事実である。
これに栗原安秀が深く関係していた、というよりも栗原中尉が日大生水上源一を通じて吉田豊隆を知り、 この埼玉の青年同志を組織したのである。 しかし、予審終結決定書にも、公訴事実中にも栗原中尉ら現役将校の名はまったく出ていない。 事実は吉田、水上らが八年一月ごろ栗原と話し合うようになってから彼の計画に賛成し、 栗原少尉(当時)を中心に実行方法を練ったのだ。
実行計画によれば、栗原や近歩三の中橋基明らの青年将校が兵をひきいて出動する、 これに学生、農民が呼応して蹶起し、西園寺公牧野内府斎藤首相鈴木政友会総裁などの重臣を襲撃暗殺し、 また警視庁を襲うというものであった。 決行を九月二十二日の夜と決めたが、これもすべて栗原の発案である。
新聞発表を読んだ者は、鈴木総裁などを殺したところで仕方がないと思ったにちがいない。 果してこの当局発表にはトリックがあった。 つまり、前記のように現役軍人が首謀者となって、五・一五事件神兵隊事件のようなことを計画していたと発表すると 再び世間に大衝撃を与えるので、従犯的立場の民間側を切りはなしてこれを独立犯罪となし、 その反抗企図も「鈴木総裁暗殺計画」だけにしぼったものである。 軍部の圧力に屈した警察と裁判所の奸計だが、 その裏には当時軍中央部に実力を持っていた皇道派首脳の圧力があったと考えられる。
【中略】
このようにして、栗原中尉には何の処罰もなかった。 栗原だけでなく、いっしょに名前の出た近歩三の中橋基明中尉、歩一の香田清貞大尉、同丹生誠忠中尉、 同佐藤竜雄中尉、同中村雅郎少尉、同前田仲吉軍曹、同尾島健次郎軍曹も処罰されなかった。 ただ、中橋中尉の場合はちょっと違うが、それはあとで書くことにする。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。