紅軍、瑞金を脱出 (長征開始) 1934/10/15
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
語録
長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機であった。
・・・・・・それは十一の省にたくさんの種をまいた。
やがて芽を出し、葉を伸ばし、花を咲かせ、実を結び、将来かならず収穫されるであろう。
毛沢東 (中国共産党政治局常務委員)
引用三〇年代にはいってくりかえされた蒋介石の共産軍討伐戦は、一九三三年十月にはじまる第五次討伐戦において、峻烈の極に達する。
すなわち、河西の中央ソヴェート区のまわりに鉄条網でつながれた頑丈な調堡(※)の輪をはりめぐらし、
軍事的にも経済的にも共産軍をしめあげていったのだ。
この結果、孤立したソヴェート区内部の物価は騰貴し、住民に塩を十分に供給することさえできなくなってしまった。
「敵を深くさそいこむ」という毛沢東お得意のゲリラ戦法も、こうした蒋の調堡(※)戦術のまえには無力だった。
紅軍の全滅をさけようとすれば、敵の包囲網を脱して本拠の移動をはかるほかはない。
そこで、ついに一九三四年十月十六日、約九万の紅軍主力は、夜陰に乗じて封鎖を突破し、いわゆる長征の途につくのである。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(上)」
P.185この本を入手
引用三三年一〇月、蒋介石は一〇〇万の大軍を動員して第五次の包囲討伐を開始した。
かれは顧問に招いたドイツ軍人ゼークト将軍の進言により、根拠地全体を包囲封鎖しつつ、
その輪をジリジリと縮めていく新戦術を採用した。
中央根拠地の包囲に投入した兵力は六〇万、迎えうつ紅軍第一方面軍は一〇万、
そして紅軍の指揮をとったのは、コミンテルンが派遣したソ連赤軍将校出身のドイツ人、
オットー・ブラウン(一九〇一?〜七四)、当時はリトロフと名のった人物であった。
中国を舞台に二人のドイツ人が革命と反革命とそれぞれの側に立って対決することになったのである。
【中略】 強大な権限をあたえられたリトロフは、毛沢東たちが築きあげてきた「古今東西に例のない」軍事路線を
全面的に廃棄した。
運動戦ではなく陣地戦を、根拠地内に敵を誘いこむのではなく「国門」の外で防ぐことを、
兵力の集中使用ではなく全線にわたる出撃を主張し、
「中国革命の完全な勝利をかちとる闘争」つまりかれらが最後の決戦だと判断した反包囲戦に突入していった。
戦争は一年間続いた。
装備も悪く補給も困難な紅軍が長期の消耗戦に引きずりこまれた。
重火器をもたぬ紅軍は、国民政府軍が無数に築いたトーチカに歯がたたず、
紅軍の陣地は国民政府軍の砲・爆撃にさらされて出血を強いられた。
加えて根拠地内の情況も日に日に悪化した。
厳重な封鎖による経済的困難
―とくに塩の欠乏 ―はいうまでもないが、
極「左」的な富農消滅政策のために農村の中間層が動揺し、
国民政府軍と通牒して反乱をおこす者さえ現われた。
事態はジリ貧の一途をたどった。意志沮喪した中共指導部は、ついに根拠地の放棄を決定した。
三四年一〇月、第一方面軍の主力一〇万は、賀竜のひきいる第二方面軍との合流をめざして包囲線を突破、
西遷=長征を開始した。
だが、一転して逃亡主義におちいった軍事指導のため、第一方面軍は大損害を蒙り、毛沢東らの主張で、
ついに第二方面軍との合流を断念して貴州に転進した。
小野信爾 「人民中国への道」
P.147この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「調堡」の「調」は、正しい字を表示できないため、仮にこの字を当てています。 |