岡田内閣成立
1934/07/08
斉藤実に続いてまたも海軍から。 岡田啓介大将、中間内閣を組閣。
[詳細]【内閣成立史】  
1934/07/03   斉藤内閣総辞職
1934/07/04   西園寺公望、首相経験者・内大臣・枢密院議長と後継首相について協議
1934/07/04   岡田啓介に組閣命令
1934/07/07   鈴木(政友会)総裁、岡田内閣への入閣を拒否
1934/07/08   岡田内閣成立 (首相:岡田啓介
1934/10/01   陸軍パンフレット「国防の本義と其強化の提唱」発行
1935/01/22   斉藤隆夫、衆議院で陸軍パンフレットと軍事費偏重を非難
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1935/07/15   真崎教育総監更迭 (後任:「統制派」渡辺錠太郎
1935/08/01   八・一宣言
1935/08/03   政府、国体明徴声明@
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1935/10/15   政府、国体明徴声明A (天皇機関説は国体に背くと明言)
1936/02/26   二・二六事件
1936/02/28   岡田内閣総辞職
1936/03/04   近衛文麿に組閣命令 (辞退)
1936/03/05   広田弘毅に組閣命令
1936/03/09   広田内閣成立 (首相:広田弘毅
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用斎藤内閣は、結局、「帝人事件」で潰れたのだが、斎藤は、 この倒閣の陰謀が平沼と知って、彼に反感をもち、積極的に平沼内閣成立の企図を叩きこわす決意になった。 斎藤は、その意図が平沼や軍部に察知されないように後継内閣の成立に慎重を期した。
後継内閣を決める重臣会議は西園寺の上京を得て開かれたが、その席上、 斎藤は端的に岡田啓介を推し、これに重臣が同意した。 西園寺がこの結果を天皇に奏上して、ここに岡田の組閣が決まったのである。 世間は、岡田が海軍の長老であるところから、当面の非常時局では、ロンドン条約以来海軍を押えるのは岡田のほかはあるまいと、 好感をもった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「岡田内閣」は「岡田啓介内閣」と同じ意味です。