真崎教育総監更迭
1935/07/15
反皇道派、真崎教育総監解任を強行。 青年将校 いきり立つ。
    
1934/01/23   荒木陸相辞任 (後任:林銑十郎
1934/11/20   士官学校事件
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1935/04/06   真崎教育総監、全陸軍に国体明徴の訓示
1935/07/11   「粛軍に関する意見書」配布
1935/07/15   真崎教育総監更迭 (後任:「統制派」渡辺錠太郎
1935/08/03   政府、国体明徴声明@
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1935/10/15   政府、国体明徴声明A (天皇機関説は国体に背くと明言)
1936/02/26   二・二六事件
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
語録 ここにおいて殿下は仰せられたり(満面朱を注いで叱責せらる)教育総監は事務の進行を妨害するやと、 小官これに謹みて奉答して曰く、小官卑賤なりといえどもかかる淋しき思想を有せず。 小官は日本臣民として、皇族の長老にてあらせらるる殿下の御意に副い奉ることをえざるは実に苦しく、 只今ここに身の置き所を苦しみつつあり。 いかでか殿下に抗争する不都合なる精神を有せんや。 しかれども小官は、天皇陛下の教育総監として、教育大権輔弼の責に任ずる者なり。 しかるに今建軍の本義たる大綱が絶たれんとしつつあり。 小官これに同意することはできがたし。もしこれを強行せらるるときは軍は思想的に混乱し、これが統一困難なるべし。 只今ここにて即決せられずとも、二、三日互いに研究する余裕を与えられたしと。 殿下は最後に仰せられたり。このままにて行けば何事か起るやも知れざれども、その時には、 これに対応する処置も大臣にあるべし。このままにて行かんと。これにて三長官会議は終れり。
真崎甚三郎 (教育総監)
語録 林陸相ははじめ真崎荒木両将軍の推薦を受けて総監となり、ついで陸相に任ぜられたり。 つねに荒木真崎と心中す、 協力してことをなすと。しかるに今は裏切者たり。 人事に対し別に定見あるにあらず、つねに輿論と噂とにて人事を行われあり。
松浦淳六郎 (元陸軍省人事局長)
語録 十五日三長官会議の一時間くらい前、大臣より総監に 会見を申込みしをもって会せしに、大臣よりが総監の職を退くことを納得しくるれば、 他の八月異動は全部の思うとおりにやるとのことなりしも、 総監は断然拒絶せられたり。 八月異動に対する大臣の信念いずこにありや、 ただ総監を退かしむことに重点を置くのみ。
松浦淳六郎 (元陸軍省人事局長)
語録 真崎罷免劇の主役中の主役は、皇族という特権を全面的に回転させて、最後の最後まで流動的で及び腰であった林陸相や その幕僚どもを叱咤激励しつづけた閑院宮総長であったということができる。
真崎罷免はこの閑院宮の活躍によってはじめて実現したのである。
田崎末松 (作家)
引用昭和十年七月、軍中央では新たな権力闘争が起こっていた。 林陸相真崎が人事をめぐって応酬していた。
「こんどの人事異動は、私の手で行ないたい。 ついてはこの際、君も現役を退いてもらえないか」
顔色のかわった真崎を無視して、はことばを足した。も内心ではふるえていた。
「部内の総意なのだ。君が派閥の中心となって統制を乱しているのが、その理由だ」
「それはおかしいではないか。天皇のこの軍隊は部内の総意で動くのか」
のもとには人事局長今井清、陸軍次官柳川平助の作成した案が届いている。 それとは別に永田や参謀次長杉山元が加わっての人事構想もできあがっている。 ふたつの案とも山岡重厚、小畑敏四郎山下奉文、鈴木率道ら荒木真崎系の将校を省部から外すのを眼目としている。 この事情を知った真崎は激しく抵抗した。 三回にわたる話し合いでも、の決意は動かない。 すると真崎は、「こんな筋のとおらない人事を強行すれば何が起こるかわからない」と脅した。 軍の最高人事は陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三長官で決めるという内規があるではないか。 それに陛下の教育総監として仕えている以上、私の意見を無視するのは統帥権干犯ではないか 真崎はくり返した。この意見をは退けた。
青年将校は真崎に加担した。 彼らは「天皇の大権を侵すのは、永田だ」と軍内にふれ回り、永田のロボットだから、 元兇は永田であると公言した。
七月十五日、真崎の罷免が決まり、皇道派の重鎮は軍中央から消えた。 青年将校の怒りは頂点に達し、永田の周囲では、テロの危険があるから外遊でもしたらどうかという声があがった。
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