相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1935/08/12
真崎大将罷免にキレた相沢中佐が、白昼の陸軍省で永田軍務局長をぶった斬った。
    
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1933/07/11   神兵隊事件
1933/11/13   埼玉挺身隊事件
1934/11/20   士官学校事件
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1935/04/06   真崎教育総監、全陸軍に国体明徴の訓示
1935/07/11   「粛軍に関する意見書」配布
1935/07/15   真崎教育総監更迭 (後任:「統制派」渡辺錠太郎
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1936/02/26   二・二六事件
1936/07/03   相沢三郎刑死 (相沢事件
〜 皇道派 相沢の目から見た永田鉄山 〜
「重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化」しようとしている統制派の元凶
taro's トーク ああああああ
引用昭和十年八月十二日午前、東京三宅坂台上の陸軍省内の執務室で、 軍務局長永田鉄山少将は、現役の陸軍中佐によって斬殺された。 背部に二刀、こめかみに一刀、さらにとどめの一刀が咽喉部にくわえられ、 軍服はおびただしい出血に黒々とぬれ、絨毯の血の海に、即死同然の凄惨な姿を横たえるまで、 ほとんど一瞬の出来事であった。
兇行時間は午後九時四十五分頃、永田少将は五十一歳、加害者は剣道の達人として知られた相沢三郎中佐、 四十六歳。永田は陸士十六期、相沢は二十二期、軍政の中枢と隊付とそれぞれにコースは異なっても、 陸軍はえぬきの軍人であることにかわりはない。
この日の夕刊は、永田を危篤であると報じ、犯人は某隊付中佐とふせた陸軍省発表をのせたが、 この夕刊の解説記事にもあるように、「現役将校が白昼公務執行中の上長官に対し危害を加え『危篤』に陥らせたという事実は、 我が陸軍未曾有の重大事」であった。
引用八月十二日―。
午前五時半、久里浜の家を出た。 途中、渋谷区松濤の自宅に立ち寄って身支度し、午前八時半、三宅坂の陸軍省に出勤した。
その二階に、軍務局長室はあった。
猛暑の月曜日である。入り口のドアは開け放されていた。 入って左手に応接用の広い円形テーブルがあり、右手にある非常持出用の書棚の先に固定した木製衝立に並んで、 簀の衝立が立っていて、内部の様子が見えていた。
午前九時四十分過ぎ、永田は、南向きの窓を背に局長用テーブルに座って、 前の椅子に座る東京憲兵隊長新見英夫大佐、兵務課長山田長三郎大佐と打ち合わせをしていた。
その時、衝立の右側から、異様な形相の歩兵中佐が無言のままぬっと入って来た。 軍刀を抜いている。
殺気に気がついた永田は立ち上がった。
山田大佐はすっと出ていった。とされる。
右の方へ避けようとする永田の背後から、軍刀を握り上げて、白刃一閃、相澤が斬りつけた。 だが、一刀両断ではなかった。右肩に受けた永田の傷は浅い。
永田はテーブルの前に廻って、隣の軍事課長室へ逃れようとした。 追って迫って来る中佐の腰に、新見英夫大佐がとびついたが、中佐に斬りつけられ、左上膊部に重傷を負い、 転倒して意識を失った。とされる。
軍事課長室のドアはロックされていて開かない。 永田のその左背部に向かって、相澤は刀身に左手を添え、渾身の力を込めて突き刺した。 切尖は永田の心臓部に達した。
倒れた永田は気丈にも、入り口の方へ這っていったが、応接用テーブル付近で力尽きた。
仰向けになった永田の体の上から、そのこめかみに一刀を加えた中佐は、武士の作法通り、 永田の首筋に、とどめを刺した。
一瞬の出来事だった。
軍事課室から、課員の武藤章(中佐)らが駆け込んだ時には、永田はすでに息絶えていた。
この「相澤事件」は、半年後に勃発する二・二六事件の導火線となり、時代を変えた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。