美濃部達吉、貴族院議員辞職
1935/09/18
なぜ? どうして? 日本中からのバッシングにあって、美濃部博士、ついに議員辞職。
    
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1935/04/06   真崎教育総監、全陸軍に国体明徴の訓示
1935/04/09   美濃部達吉の3著発禁 (売り切れ続出)
1935/08/03   政府、国体明徴声明@
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1935/09/18   美濃部達吉、貴族院議員辞職
1935/10/15   政府、国体明徴声明A (天皇機関説は国体に背くと明言)
1936/02/26   二・二六事件
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用固い決意をもっていた美濃部も、九月に入ってついに公職を辞退する決意を固めた。 それはもっぱら松本烝治の説得によるもので、それまで最後まで頑張るべきだといっていた松本も、 司法省で友人の中島次官、大森洪太民事局長と会い美濃部の起訴問題について懇談した結果だった。
すなわち、松本は、詔勅批判の件で起訴せざるを得ないという司法省の強硬意見を聞き、かつ、 次官と局長から、美濃部が公職を辞退するなら起訴猶予とするから何とか辞職の方向にすすめてくれ、 とたのまれたためであった。 そこで松本は、美濃部が起訴されると公判が開かれる、そうなると機関説問題は彼に攻撃が集中し、また、 その公判段階から一木や金森に当然災いを及ぼすことになり、 さらに美濃部の身の上にどんなことが起るかもしれないと考えて説得したのだった。
「九月九日の夜のことだったとおぼえている。 松本(烝治)博士は父と懇談し、公職を辞退することをすすめられた。 父は案外あっさりと松本博士のすすめに従った。 全くあっけないようだった。 隣りに住んでいた私も呼ばれ、『亮吉、貴族院をやめることにしたよ』と笑いながら言った。 ・・・・・・いろいろ考えた末、いくら反抗しても、こういう時勢ではどうにもならない。 しかし、父はあくまで、辞職したから起訴猶予になったという形は取りたくない、起訴猶予になってから、 世間を騒がして相すまなかったということで公職を辞退することにしたいと主張した。 そして、父のいい分が通った」(美濃部亮吉「苦悶するデモクラシー」)
松本烝治美濃部の内意を司法省に伝えた。 司法省は大いによろこび、九月十四日美濃部に再度検事局への出頭を命じ、現在の心境を問うた。
美濃部は、公職を辞退するつもりであると述べたので、九月十九日、美濃部に起訴猶予の内定がなされた。 起訴猶予といっても有罪は有罪である。 美濃部の著書が出版法に抵触しているので、これを有罪としたのだ。 美濃部は、その決定が公表される二十一日、貴族院議員辞職を公に声明した。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。