二・二六事件
1936/02/26
陸軍の青年将校たちがクーデター計画を実行、日本中を震撼させ、天皇を激怒させた。
    
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1933/11/13   埼玉挺身隊事件
1934/11/20   士官学校事件
1935/07/15   真崎教育総監更迭 (後任:「統制派」渡辺錠太郎
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1936/02/26   二・二六事件
1936/02/27   東京に戒厳令
1936/02/28   岡田内閣総辞職
1936/02/29   戒厳司令部、「兵に告ぐ」ラジオ放送
1936/02/29   戒厳部隊、討伐行動開始 (→反乱軍帰順)
1936/03/04   近衛文麿に組閣命令 (辞退)
1936/03/05   広田弘毅に組閣命令
1936/03/06   陸軍(陸相予定者寺内寿一)組閣干渉 (自由主義者の排除を要求)
1936/03/09   広田内閣成立 (首相:広田弘毅
1936/03/23   陸軍、二・二六事件関係者の処分と人事異動を発表
1936/05/07   斉藤隆夫「粛軍演説」
1936/05/18   軍部大臣現役武官制復活
1936/07/05   二・二六事件判決 (東京陸軍軍法会議)
1937/08/14   東京陸軍軍法会議で、北一輝、西田税に死刑を宣告 (二・二六事件)
〜 二・二六事件がわかりにくい理由 〜
・ 「昭和維新」と言いながら、実は陸軍の派閥抗争だったから
・ 陸軍首脳の態度が天皇の激怒でがらっと変わったから
・ 陸軍首脳が事件の責任を右翼民間人に押し付けようとしたから
・ 事件を利用して、陸軍(統制派)が逆に勢力を伸ばしたから
taro's トーク ああああああ
語録 あの方たち(青年将校)は、みんな無口で、まじめな方ばかりでした。贅沢など、とんでもありません。 簡単な食事どころか、せいぜいお茶と菓子くらいで会合していました。 わたしたちも、つい、商売抜きで面倒をみてあげたくなりました。 支払いは、みなさんの名前を帳面につけて、まとめて連隊の経理のほうに請求し、 経理から月給引きで支払ってもらいました。
竜土軒(フランス料理店)主人
語録 秩父宮殿下歩三におられし当時、国家改造法案もよくご研究になり、改造に関してはよく理解せられ、 この度蹶起せる坂井中尉に対しては御殿に於いて「蹶起の際は一中隊を引率して迎えに来い」と仰せられしなり。
中橋基明 (決起将校)
引用雪に覆われた東京で、急進派の青年将校に率いられた千四百名余の歩兵部隊が、反乱を起こし、首相官邸をはじめ、 国会議事堂、参謀本部、陸軍省などの要所を占拠したのは、未明のことだった。 しかし、直ちにきびしい報道管制が施かれたので、事件の発生は、夜になって陸軍省が公式に発表するまで、一般には伝えられなかった。
引用この日天皇が事件の知らせを聞いたのは午前五時四十分であるから他の関係者に較べても早い方である。
斎藤実邸が襲われたのは午前五時五分であるが、それ以前の歩兵第一連隊が決起したという知らせが侍従武官長本庄繁大将のもとに入った。 本庄は宿直の侍従武官中島鉄蔵少将に電話をした後、参内の準備をした。
中島は直ちに侍従甘露寺受長に知らせ、甘露寺が天皇に報告したものである。 天皇は直ちに陸軍の軍服を着用して政務室に出た。 肩には大元帥を示す四つの星が並んでいた。
午前六時頃、本庄木戸湯浅内相、広幡侍従次長が相次いで参内した。
夜来の雪が降りしきっており、政務室は寒かった。 スチームの暖房がまだ利かず、天皇や拝謁した本庄の唇にも血の色は少なかった。
「本朝、歩兵第一、第三、近衛歩兵第三連隊の一部が出動し、斎藤内大臣岡田総理鈴木侍従長高橋蔵相の邸を襲いましてございます。 重臣たちの生死は未だ判明致しませぬが、みだりに軍隊を出動せしめたる件、容易ならざる事件と存じ、恐懼に堪えませぬ」
本庄がそう報告すると、三十六歳の天皇は大きく眉をよせてその衝撃を表した。
「未曾有ノ不祥事デアル。速カニ事件ノ実態ヲ調ベ、軍隊ヲ正常ニ復セシメヨ」
天皇はそう言うと、本庄を退出せしめた。
引用川島は三宅坂の陸相官邸第一応接室で決起組の香田清貞大尉、免官になっている磯部浅一村中孝次(いずれも軍服着用)と対座していた。 最終の目標渡辺錠太郎陸軍教育総監邸の襲撃が終ったのが六時すぎであるから、 川島の前で香田が「決起趣意書」を読み上げたのは午前七時近くであろうと思われる。 決起趣意書は「至尊天皇の絶対を犯す奸臣軍賊を倒すのが天皇の股肱である我々軍人の任務である」という要項に基づいたものである。
香田は続いて決起部隊配備図、参加将校の名簿を川島に提出した後、次のような要望事項を示した。
一、皇軍相撃つことなかるべし。
二、警備司令官、近衛、第一師団長に陸相より過誤の行動なきよう厳命してもらいたい。
三、南大将宇垣大将小磯、建川両中将(いずれも香田ら皇道派に反対の将軍)を保護検束すべし。
四、速かに陛下に奏上し、(我ら決起将校の行為を支持するという)御裁断を仰ぐべし。
五、林銑十郎大将(軍事参議官)を罷免し荒木貞夫大将を関東軍司令官に任命すべし。
六、全憲兵を統制し一途の方針(決起軍に同調する)に進ませること。
七、山下奉文軍事調査部長、古荘幹郎陸軍次官ら皇道派幹部をここに集めてもらいたい。
まだあるが、要するにこの際皇道派に反対する統制派の将軍を一掃し、皇道派の独裁にもちこみたい、 天皇親政をめざす“股肱”の至純の行為であるから、天皇にも認めてもらい、 軍は自分たちの要求に従って行動せよ、というのである。 一種のクーデターであるが、天皇の股肱であると自任しながら、天皇の信任の厚い将軍たちを罷免せよと要求するなどは、 陸相として到底承認し難いものであった。
引用四谷仲町三丁目の斎藤内府邸の襲撃を終った坂井直中尉の部隊は、 ここで二つに分れ、主力部隊は坂井、麦屋が引率して陸軍省附近に移動し、高橋太郎、安田優両少尉は 下士官兵約三十名を指揮して赤坂離宮前に移って、田中部隊のトラックを待った。 第二次決行の渡辺教育総監襲撃のためだ。
渡辺大将の自宅は杉並区上荻窪二丁目にある。 赤坂離宮前から四谷の電車通りに出て青梅街道約十二キロを西に疾駆した。 トラックには軽機関銃四梃、小銃約十梃を積んだ。
【中略】
渡辺邸到着時を判決文では「午前六時過ぎ」とあるが、斎藤邸襲撃の所要時間、赤坂離宮までの徒歩時間、 ならびに予定より遅れて到着した田中部隊のトラックの時間、さらに四谷より新宿経由で荻窪まで到着する時間を入れると、 六時過ぎというよりは七時に近い時刻ではなかったろうか。
次は安田優の供述だが、注目すべき言葉を含んでいる。
「・・・・・・『トラック』は邸内(渡辺家)ノ側ノ道迄行キ兵三名ヲ下ノ方ニ出シ(原註。 地方人ガ弾ニ当ツタラ危イト思ツテ)私達ハ正門ノ方ヘ行キマシタ。
此ノ際、特ニ申スコトハ、昭和維新断行ハ軍ノ協力一致ニアレバ渡辺教育総監モ一体トナル為ニ之ヲ求メントシテ 官邸(陸相官邸)ニ先ズ迎ヘント言フ真意ニアツタコトデスカラ、殺ス意志ハ、其時迄ハ無カツタノデアリマス、 而シテ正門カラ行キマシタ。
私達ハ単ニ総監ヲ殺スナラバ裏門カラ行ケバヨイト云フ事ハ判ツテ居タガ、 殺スノガ目的デナイノデ厳重ナル戸締ノアル門ニ向ツタノデス」(安田調書)
安田供述によれば、渡辺教育総監を殺害するつもりはなく、 いわば武力で強制的に陸相官邸に連行し、転向されるか、傷つける程度でよかったという。 襲撃目標になった人物はことごとく殺害される計画だったから、渡辺ひとりが例外であるはずはない。 だが、この言葉を一方からみると、他の重臣ほどには青年将校の憎悪がなかったことを推測せしめる。
磯部は「行動記」に高橋蔵相と共に、渡辺を襲撃目標に加えたことが「問題になると思ふから、 理由を記しておく」として、
渡辺は同志将校を弾圧したばかりでなく、三長官の一人として、吾人の行動に反対して弾圧しさうな人物の筆頭だ。 天皇機関説の本尊だ」
と書いている。
引用天皇に重臣襲撃のことを最も早く知らせたのは当直の甘露寺侍従で、 甘露寺は鈴木侍従長官舎、つづいて斎藤内大臣官舎より電話通報をうけた。 腕時計を見ると五時四十分すぎ。
陛下はまだ御寝になつてゐる時刻だが、事柄が事柄だけに、一時もはやく奏上せねばならぬと、御寝室に伺つた。 差支ない、緊急の用務なら茲で聞くと仰せられたので、鈴木斎藤両重臣が軍隊に襲撃され、 斎藤内府は落命、鈴木侍従長は重態である旨を申上げた。
陛下は静かにお聴取りになり『そして暴徒はその後どの方面に向つたか判らないか、 まだ他にも襲撃された者はないか』とお訊ねになつた。『暴徒』さうだ確かに暴徒だ、正しい日本の陸軍ではない、 甘露寺の頭にこの『暴徒』といふ言葉が強く烙印された」(高宮「天皇陛下」)
引用二十六日朝以来、天皇本庄を信用しなかったのは、 多分に前宮相の一木喜徳郎枢府議長らの進言もあったようである。 一木は、いうまでもなく「天皇機関説」の憲法学者で、機関説問題が起ると同時に、皇道派から排斥されていた。
広幡皇后宮大夫は、天皇の下問には奉答し得ずとして、「湯浅宮相ニ内大臣ノ気持ニテ奉仕センコトヲ述ベシモ、 宮相ハ政治ニ干与スベキニアラズトテ躊躇」した。
「併シ、宮相ハ事実ニ於テハ、
御上ノ御下問ニモ、勢ヒ奉答スルコトトナリ、又事件発生以来、宮中に起居セル一木前宮相等モ、 裏面的ニ種々奉仕ヲ為スコトトナレリ」(同上)
一木湯浅倉平とがこの事件対策では事実上の天皇のブレーンだったことが分る。 香椎戒厳司令官が親皇道派であることも、この線から天皇は聞いたのかもしれない。
一木天皇の信任が厚かった。 事件発生以来、彼が宮中に泊まりこんでいたのは、天皇からの言葉だった。
「木戸日記」二月二十六日の条。
内大臣薨去せるを以て、差当り枢密院議長に参内を御願することとし、連絡をとる。 午後三時頃、一木枢密院議長は参内せらる。 陛下より議長に対しなるべく側近に居る様にとの意味の御言葉ありし由にて、 組閣の完了する迄内大臣室に宿泊せらる」
したがって内府秘書官長としての木戸幸一一木湯浅の背後にあって、 間接的な天皇の顧問格であった。
引用駐日アメリカ大使ジョセフ・C・グルーは二月二十六日朝十時、 ワシントンの国務長官宛に左の緊急電報を打った。
「今早暁、軍は政府と市の一部を占領し、高官数名を暗殺したと伝えられる。 いまだ何事をも確かめること不可能。新聞特派員は外国に電報することも電話することも許されない。
この電報はわれらの暗号電報が送信さるるや否やを確かめるため、 主として試験のため送るものなり。 暗号室は受信の上は直ちに報告されたし」(J・C・グルー「滞日十年」石川欣一訳)
引用二・二六事件をどう評価するにせよ、二十六日払暁から二十九日夕刻までの経過は、 のちに叛乱罪で処刑される男たちが、まるでなぶり殺されるような憤懣を書き遺す、実に不可解な経緯をたどっている。
まず二十六日、川島陸相から「蹶起の趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ」にはじまる大臣告示が、 叛乱をおこした部隊に伝達される。 伝達者は山下奉文、しかも告示は二種類あった。 つづいて戦時警備令が下達されるが、これは叛乱部隊を正規の警備部隊に編入し、占拠中の場所で警備につくことを命じている。 正規の命令なく出動して殺傷をおこなった部隊が「公民権」をあたえられ、 食料その他正規の軍隊として待遇されたのはこの命令による。 二十七日、緊急勅令により東京市に戒厳令施行。 「叛乱」部隊は麹町地区警備隊として区処され、これを知った磯部浅一は万歳を唱えている。
二十八日、「出動」部隊は占拠をやめて原隊へ復帰せよという天皇の奉勅命令が第一師団の各部隊に伝えられるが、 「出動」して叛乱した部隊にこの命令は伝達されない。 そして二十九日、伝達されなかった奉勅命令に違反したという名目で、叛乱の烙印がおされ、鎮圧がおこなわれる。 しかし軍本来の命令と服従の関係にあって、
「下達せざる命令に抗すると言う理屈なし」(磯部の「獄中手記」)
なのである。生粋の隊付将校というべき安藤輝三の遺書に、
「『謀略ノタメノ命令』ハ断ジテ存在スルモノニアラザルナリ」
とあるのはまさに正論であり、存在してはならないいくつかの「謀略」ゆえに、 裁判は軍法の名のもとに一審即決、弁護人なし、非公開の「暗黒裁判」でなければならなかったのである。
青年将校二名の自決のあと、戒厳令下、勅命によって開設された東京特設軍法会議は、 十九名に叛乱罪で銃殺刑の断を下した(この二十一名中、十四名が妻帯していたのである)。 そして全処刑の終了後、叛乱幇助明白な真崎陸軍大将は無罪となった。
引用『本庄日記』は事件の遅延につれて、 天皇の御焦燥が昂まって行くさまを伝えている。 二月二十六日午前六時、参内拝謁した本庄に対して天皇はただ「禍ヲ転ジテ福ト為セ」(二七二ページ)と 仰せられただけであったが、午前八時には「速ニ事件ヲ鎮定スベシ」と、川島陸相に厳命されている。 日記では、この日は二、三十分毎に本庄を召され、事件の成り行きを御下問になり、 鎮定方を督促されている。
翌二十七日になると「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス、此ノ如キ兇暴ノ将校等、其精神ニ於テモ何ノ恕スべキモノアリヤ」とか、 「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」と、 憎悪に近い御心中を漏らされ、遂には「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当ラン」(二七六ページ)と激しておられる。 天皇はまだこの時は御年三十五歳の青年天子、蹶起将校といくらも年齢の離れていないお若さである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「二・二六事件」は「2・26事件」とも表記されることがあります。