近衛文麿に組閣命令 (辞退)
1936/03/04
この非常時に西園寺が選んだのは “切り札” 近衛。 ところが、ご本人はこれを固辞。
    
1936/02/26   二・二六事件
1936/02/27   東京に戒厳令
1936/02/28   岡田内閣総辞職
1936/02/29   戒厳司令部、「兵に告ぐ」ラジオ放送
1936/02/29   戒厳部隊、討伐行動開始 (→反乱軍帰順)
1936/03/04   近衛文麿に組閣命令 (辞退)
1936/03/05   広田弘毅に組閣命令
1936/03/06   陸軍(陸相予定者寺内寿一)組閣干渉 (自由主義者の排除を要求)
1936/03/09   広田内閣成立 (首相:広田弘毅
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用翌四日午前十時西園寺によばれた近衛は宮内省に現れた。 『原田日記』によると西園寺の総理就任の申し出に対し、近衛は健康を理由として断った。珍しく西園寺は怒った。
「体の具合が悪いとは何事どす。(四十四歳の)あんたが健康のことをいうんなら、八十八歳のこちはどないなりますのや。 あんたが受ける受けないにかかわらずこちには奏薦の権限がおますのや。 こちは自分の信念によって奉答するよう決心してますさかい、このさい多少のことは辛抱して受けるのが当然やおまへんか!」
西園寺は京都弁丸出しで近衛を督励したが、椅子の上の近衛は長身を二つ折りにして顔面を蒼白にしてうつむいているだけであった。 眺めている原田も胸が痛い想いであった。 近衛首班は永い間唯一の公卿政治家として、軍部や政党と戦って来た老公の、最大にして多年描いていた夢であった。 しかし、近衛はそれを受けようとしない。 そこに示されているのは最愛の恋人に裏切られたような、貴族の老人性ヒステリーのようでもあった。
近衛の辞退にかかわりなくヒステリックになった西園寺は“信念”に従って、午後二時天皇に拝謁して近衛後継首班を奏請した。
この日(四日)午後四時、近衛天皇のお召しによって参内した。
天皇は、
「卿に内閣組織を命ず」
と大命降下を行った後、
「この際是非とも時局収拾の為に起ってもらいたい」
とつけ加えた。
近衛天皇の顔を仰いだ。 三十六歳の天皇は真剣な表情であった。 ご信任の厚さに彼はめまいを感じた。しかし、やはりこの際総理を引き受ける決心はつかなかった。
近衛は一旦御前を退出した後、一木議長と会いさらに次官室に西園寺を訪れ、辞意を表明した。 老公はあきれたようにこのいうことをきかない親不孝の息子を眺め、
「こちがあれほどいうたのに、わからんのか」
と苦り切った調子で言った。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。