相沢三郎刑死
1936/07/03
昭和の志士 相沢三郎、7月の代々木に散る。
    
1934/11/20   士官学校事件
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1935/07/11   「粛軍に関する意見書」配布
1935/07/15   真崎教育総監更迭 (後任:「統制派」渡辺錠太郎
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1936/02/26   二・二六事件
1936/07/03   相沢三郎刑死 (相沢事件
1936/07/05   二・二六事件判決 (東京陸軍軍法会議)
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1937/08/14   東京陸軍軍法会議で、北一輝、西田税に死刑を宣告 (二・二六事件)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用「【中略】 執行前夜は零時頃就寝、朝三時に起床直に室内の清潔整頓を為し、朝食を終り、 遺言其の他書きものを点検し、
『これでよし』
と整頓し、次で猪股定豊氏差入れの仏像に対し観音経を読誦し、なお、『尊皇絶対』と画仙紙に大書し、 その左脇下に『昭和十一年七月三日午前四時三十五分於宇田川、相沢三郎絶筆』と認め、
『私はいつでも宜しくあります。時間を与えて頂き有難う御座いました。 お蔭で私のすることは一切片づきました。家内の編んだ腹巻を着けて行くことをお願いします』と、 取りも直さず死刑執行の催促である。言語についても大層叮嚀で、入所当時とは別人のようであった」
手塚手記は、次に相沢の死刑執行の段階を述べる。
「七月三日午前四時四十八分、相沢を出房させたのだが、房前二十数メートルの廊下を言渡所に控えていた私を見かけ、 付添の看守の指図も余所に、突然駈け出し速歩で嬉しそうな身振りで私の前に来り、 にこにこ微笑を含んで叮嚀に謝辞を述べ、傍らの検察官に黙礼し、進んで執行を要求するような落ちつき払った態度であった。 それより医官の健康診断を行い、次で執行言渡をなしたのである。
遺言の始末や領置物品の処置や、申し残すことの有無など訊ねたが、前夜より用意周到に、 死後一切のことを処理してあることとて、
『何もありません、色々お世話になりました。お蔭で健康でありました。 皆様によろしく、刑場へ行く途中で、遥拝をさして頂きます」
とのことで遥拝所へ護送した。 大声で『天皇陛下万歳』を三唱した。この音声で、一般被告人、受刑者等は起床前なるも大半は起床したのであった。
これより刑場への護送中、目隠しをするのであるが、武魂烈々などと常に言っていた相沢の気性から推し、 屹度目隠しを拒むのではないかと考え、前に看守長に下記のような方法でやるよう命じて置いた。 第一『断りたるときは規則だから』と、尚遠慮したら『射手が困る』と告げろと。
果して相沢は『目隠しはやらないで下さい。武人の汚れだから』と拒絶する。 規則だからと言えば私に限りその必要はありませんという。『射手が困ります』といえば、
『射手が困る、それではやりましょう』
と柔順に目隠しをなし、
『私は外に出るのだと思っていましたが、この中でやるのですか』
といって、悠々刑架に就き平然と少量の水を含み執行を受けたのである」
刑架は、十字架で、これに処刑者を縛りつけた。 ただし、下は地面に膝を折って坐るようになっている。 塚本メモは「銃殺、死体処置其他総て二・二六事件執行者と同様であるから略す」と書いているので、 相沢の処刑場が刑務所の煉瓦塀を前面にして壕を掘り、壕の奥深くに右の十字架が立てられてあったことが分る。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。