相沢三郎刑死 1936/07/03
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用「【中略】 執行前夜は零時頃就寝、朝三時に起床直に室内の清潔整頓を為し、朝食を終り、
遺言其の他書きものを点検し、
『これでよし』
と整頓し、次で猪股定豊氏差入れの仏像に対し観音経を読誦し、なお、『尊皇絶対』と画仙紙に大書し、
その左脇下に『昭和十一年七月三日午前四時三十五分於宇田川、相沢三郎絶筆』と認め、
『私はいつでも宜しくあります。時間を与えて頂き有難う御座いました。
お蔭で私のすることは一切片づきました。家内の編んだ腹巻を着けて行くことをお願いします』と、
取りも直さず死刑執行の催促である。言語についても大層叮嚀で、入所当時とは別人のようであった」
手塚手記は、次に相沢の死刑執行の段階を述べる。
「七月三日午前四時四十八分、相沢を出房させたのだが、房前二十数メートルの廊下を言渡所に控えていた私を見かけ、
付添の看守の指図も余所に、突然駈け出し速歩で嬉しそうな身振りで私の前に来り、
にこにこ微笑を含んで叮嚀に謝辞を述べ、傍らの検察官に黙礼し、進んで執行を要求するような落ちつき払った態度であった。
それより医官の健康診断を行い、次で執行言渡をなしたのである。
遺言の始末や領置物品の処置や、申し残すことの有無など訊ねたが、前夜より用意周到に、
死後一切のことを処理してあることとて、
『何もありません、色々お世話になりました。お蔭で健康でありました。
皆様によろしく、刑場へ行く途中で、遥拝をさして頂きます」
とのことで遥拝所へ護送した。
大声で『天皇陛下万歳』を三唱した。この音声で、一般被告人、受刑者等は起床前なるも大半は起床したのであった。
これより刑場への護送中、目隠しをするのであるが、武魂烈々などと常に言っていた相沢の気性から推し、
屹度目隠しを拒むのではないかと考え、前に看守長に下記のような方法でやるよう命じて置いた。
第一『断りたるときは規則だから』と、尚遠慮したら『射手が困る』と告げろと。
果して相沢は『目隠しはやらないで下さい。武人の汚れだから』と拒絶する。
規則だからと言えば私に限りその必要はありませんという。『射手が困ります』といえば、
『射手が困る、それではやりましょう』
と柔順に目隠しをなし、
『私は外に出るのだと思っていましたが、この中でやるのですか』
といって、悠々刑架に就き平然と少量の水を含み執行を受けたのである」
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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