西安事件 1936/12/12
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
語録
・・・・・・わたしの場合は疑惑や不安どころではなかった。
蒋先生はわたしを信任していない、わたしはもはや重視されていないのだ、
という思い、それこそが、楊虎城と協議のうえ、監禁して諌めるという策謀を決行させたきっかけ・・・・・・
張学良 (奉天派軍閥)
語録
今回、わたしは生命の危険を冒して委員長を送って南京に戻った。
そもそもがこれまで誰も演じたことのない、すばらしい劇を演じたいと思ったのだ。
もし、委員長に大政治家の風格をもってわたしに西安を帰したなら、
これこそ千古の美談じゃないか! 惜しいことにせっかくの芝居が台なしになってしまった!
張学良 (奉天派軍閥)
引用一九三六年の十二月はじめ、蒋介石は、おりから陝北地区の共産軍討伐にあたっていた張学良、楊虎城の軍隊を督戦するために、
西安に飛んだ。
ところが、すでにそれ以前から共産党の統一戦線結成のアピールに耳をかすようになっていた張学良たちは、十二日、
突如蒋介石を幽閉する挙にで、その方針の転換(つまり内戦の中止と抗日のために統一戦線の結成)をせまったのだった。
蒋は、はじめのうちこの要求を拒絶した。
だが、まもなく西安にまねかれた中共代表の周恩来の斡旋もあって、この年もおしつまった十二月二十四日、
ついに両者のあいだに和解が成立した。
蒋介石は、釈放されて南京への帰還をみとめられるかわりに、張たちの要求をうけいれたのである。
野田宣雄 「ヒトラーの時代(上)」
P.189この本を入手
引用一九三六年一二月、蒋介石は、彼の内戦の主要基地、西安で、
二人の部下の将軍によって強制的に拘留された。
一人は「青年元帥」張学良だった。
張は、一九三一年に、彼の故郷東北(満州)に対する日本の占領に抵抗してはいけないと、
蒋に命令されていた。
しかも今度は、日本軍ではなく「紅軍」と闘うように蒋から命じられた。
張と彼の部隊は、紅軍に敗れた後、紅軍が捕虜を友人として待遇し、釈放したことを見て、
「中国人は中国人とは闘ってはいけない」という呼びかけにはどうしても応えなければならないと認識したとしても不思議ではない。
張は、抗日と紅軍との停戦を決定した。
もう一人の将軍楊虎城は陝西で生まれ育ったので、西安を首都とする陝西省を内戦の主戦場にしたくなかった。
また、彼は帝国主義とは何のつながりもなかったが、
地元の進歩的な人たちと往来があったので、張学良といっしょに行動した。
蒋介石を掌中にした両将軍は、蒋に統一戦線に同意し、それを全国的規模のものに発展させることを要求した。
蒋は初めのうちはかたくなで、「いっそのこと、私を殺せ」と言った。
もし共産党が介在しなかったなら、事情は彼に不利に推移したであろう。
中共は周恩来を西安に派遣し、蒋が国内平和を実現し、日本に対して強硬姿勢をとることに同意することを条件に、
蒋の釈放を提案した。
共産党員は、これまで非常に長い間、蒋に追われ、皆殺しの対象(周恩来の首にも高額の賞金がかけられていた)になっていた。
しかし、いまは蒋の生死を思いのままにできる立場に立ち、しかもこのように提案したのである。
このことは、全中国と全世界に対して、共産党員は民族の運命の関頭に立って、
みずからの恩讐を超越したことを表明するものだった。
蒋介石は、同意の後、南京に送り返された。
それは、妻宋美齢と妻の兄宋子文の協力によるものでもあった。
二人は蒋の釈放を求めるために南京から西安に飛び、張学良、楊虎城両将軍と話し合い、周恩来とも会談した。
彼らは国民党内の親欧米派を代表していて、親日派に反対していた。
彼らは蒋介石に、南京の親日派の政客たちは西安を爆撃することを画策し、
内戦を長びかせるだけでなく、機に乗じて彼を見殺しにして権力を奪おうとしていると信じさせた。
イスラエル・エプシュタイン 「宋慶齢(上)」
P.428
引用中国現代史の大きな転換点となった「西安事変」は、
一九三六年十二月十二日未明に起こった。
蒋介石に内戦停止を説いて拒絶された張学良が、兵を動かして蒋介石を監禁し、
楊虎城と連名で八項目の要求を全国に通電したのである。
@南京政府の改組、諸党派共同の救国。A内戦の停止。B抗日七君子の釈放。C政治犯の釈放。
D民衆愛国運動の解禁。E人民の政治的自由の保証。F孫文遺嘱の順守。G救国会議の即時開催。
この事件は「内戦停止、一致抗日」の世論を劇的に表現したものにほかならなかった。
だが中国の最高指導者の監禁という異常な事件は、全世界に強烈な衝撃を与えた。
ソ連の新聞は「親日分子の陰謀」であり、「反日勢力の団結を破壊するもの」と非難した。
日本の新聞は、張学良独立政府とソ連が協定を結んだ、と報じた(民衆運動の動向から「抗日民族統一戦線」の結成を予見したのは、
朝日新聞記者尾崎秀実ただ一人であった)。
日本政府は蒋介石後の南京政府を親日派が掌握するよう画策しはじめた。
南京の国民政府では、蒋介石の生命の安全を無視しても張学良を討伐すべし、とする親日派の何応欽ら強硬派と、
和平解決を望む馮玉祥・宋美齢(蒋介石夫人)らが対立した。
「逼蒋抗日」を唱えていた共産党内でも、ことの意外な進展にとまどって、
蒋介石の公開裁判・処刑を要求する声さえあった。
【中略】
蒋介石は頑強にこの「兵諫」を拒絶した。
張学良討伐のための中央軍は陝西省東端の潼関に入り、西安近郊を爆撃した。
東北軍の青年将校の間に蒋処刑の声があがりはじめた。
この一触即発の危機を救ったのは共産党であった。
張学良の依頼を受けて十七日西安に飛来した周恩来、秦邦憲、葉剣英は、
「団結抗日の基礎に立つ和平解決」を求めて蒋介石を説得するとともに、
南京代表の宋子文、宋美齢らと折衝を重ね、ほぼ八項目要求の内容を認める形で合意に達したのである。
蒋介石はこの合意を文書にして署名することは拒否したが、十二月二十五日、西安を飛び立つさいに、
「約束はかならず守る」と言明した。
こうして内戦は事実上停止された。
張学良は、「兵諫」の責任を負ってすすんで軍法会議にかけられることを望み、
蒋介石に同行した。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.158この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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